グルジェフが明かす「7つの意識レベル」~あなたは今どの段階?~

こんにちは、瑠璃です。

今日はグルジェフと7つの意識レベル~機械人間から脱却せよ~というテーマでお話しようと思います。

過去に人間の意識レベルを7つに分けて理路整然と説明した人物がいました。その人物とは、20世紀最大の神秘思想家と呼ばれたグルジェフです。

グルジェフが画期的だったのは、人間はその意識レベルに応じて1番から7番に分けられるとしたことです。下が1番で順に上がっていって、一番上が7番です。つまり、覚醒や目覚め、悟りやアセンションなど意識レベルの進化を一口で言っても、これには段階があり、7つの段階があるということです。

実はこれは私も全く同じで、私もこの7つのレベルで人の意識レベルを感知しています。

今日の記事を読むことによって、論理的にスピリチュアルを理解できるようになりますし、何よりあなたが出会う人やスピリチュアルに対する見方がガラッと変わるでしょう。

途中で私の普段の見え方や感じ方についても解説していきますので、ぜひ今日の記事を最後までお読みください。

知られざる人間の7つのカテゴリー

それでは今日の本題です。

グルジェフは20世紀最大の神秘思想家と呼ばれました。グルジェフは1866年にアルメニアに生まれ、ロシア、フランス、アメリカなどで活躍し、1949年に亡くなりました。

彼はスピリチュアルを理路整然と説いた一人であり、性格診断のエニアグラム図形の発案者としても知られています。

それでは、これからグルジェフの弟子であったウペンスキーが、グルジェフの言葉を記録した『奇跡を求めて』という本から、人間第一番から第七番について引用しながら紹介します。

 

太陽系から人間まで、人間から原子まで、宇宙のすべてのものは上昇するか下降するか、進化するか退化するか、発展するか崩壊するかのどちらかだ。しかし、機械的に進化するものは何一つない。ただ退化と崩壊だけが機械的に進行するのだ。意識的に進化することのできないものは退化するのだ。外部からの助けは、その価値が認められ受け入れられる限り、たとえ初期の段階ではそれが感じられるだけにせよ、得ることができる。

このために我々の通常の概念の多くは、この進化の段階にしたがって分割される。もう一度、人間という概念をとりあげよう。私の話している言語では、〈人間〉という語のかわりに7つの語が使われる。つまり、人間第一番、人間第二番、人間第三番、人間第四番、人間第五番、人間第六番、人間第七番だ。これら7つの概念を使えば、それだけでもう人々は、人間について話すとき、理解しあうことができるのだ。

 

はい、ここで人間一番から七番までが出てきました。グルジェフは「人間」と一口に言っても、実は7つの種類に分けられると言っているのですね。

それでは引用に続きます。

 

人間第七番とは何か

 

人間第七番とは、人間に可能な発展段階の頂上に到達した人で、人間の所有できるすべてのもの、つまり意志、意識、恒久的で不変の〈私〉、個体性、不死性、その他我々の盲目と無知ゆえに自分のものだと思いこんでいる特性をすべて所有している人間だ。この人間第七番と彼のもつ特性をある程度理解して初めて、彼に近づきうる漸進的(ぜんしんてき)段階、すなわち我々に可能な発展の過程を理解することができる。

人間第六番は人間第七番の非常に近くに位置している。彼が人間第七番と違う点は、彼の特性のいくつかはいまだに恒久的なものになっていないという点だけだ。

人間第五番もまた我々には獲得し難い規範だ。彼は統一に到達した人間だからだ。人間第四番は中間的な段階だ。彼については後で話そう。

 

はい、ここでグルジェフは人間七番から四番について説明しています。簡単にいうと、人間七番から四番は覚醒している人です。

その中で最もレベルが高いのが人間七番です。七番は自分が肉体ではなく、純粋な意識であることを知っている人間。自分が不死であることを知っている人間ですね。

実際に私が見たところでは、人間四番に行くのでさえ、非常に難しいです。私が知覚したところでは、四番に達しているのは人口の1%くらいにすぎません。

では五番以上はどうかというと、グルジェフが「人間第五番もまた我々には獲得し難い規範だ」と述べている通り、さらに難易度が高くなります。私も実際にお会いしたことのある中で、五番の人は数名のみ。歴史的な偉人やスピリチュアルなマスターの中で、本当に稀に五番の方がいるかな、といった程度です。

ちなみに私は写真を見れば意識レベルが判定できるので、普段はインターネットなどで画像を見て判断することが多いです。

もし人間五番の方がいれば、過去になんらかの修行をされた方などで、精神的に卓越した人でしょう。それでは本の続きに戻ります。

 

機械的人間とは

人間第一、第二、第三番は、生まれたときと同じレベルにいる機械的な人類を構成する人々だ。

人間第一番とは、精神生活における重心が動作センターにある人のことだ。これは肉体的な人間であり、動作的、本能的機能が感情や思考の機能よりも優っている人間だ。

人間第二番は、人間第一番と同レベルの発展段階にいる、精神生活の重心が感情センターにある人間、つまり感情の機能が他のすべてに優っている人間、感覚的、感情的人間だ。

人間第三番は、やはり前の2者と同レベルにいるが、精神生活の重心が知性センターにある人間、つまり思考機能が動作的、本能的、感情的機能より優れている人、すべてのことに理論から、知的考察から入っていく理性の人だ。

 

はい、ここでグルジェフは人間一番から人間三番について述べていますね。

簡単にいうと、人間一番から三番は物質世界に重心がある人のことです。四番以降が精神世界に重心がある人ですね。

人間一番が、動作・本能的機能に重心が置かれている人。
人間二番が、感覚・感情に重心が置かれている人。
人間三番が、思考や知性に重心が置かれている人です。

一番、二番、三番は、動作に重心があるか、感情に重心があるか、思考に重心があるかといった違いはありますが、本質的に大きな違いはありません。

私が見たところでは、一番、二番、三番の合計で全人口の約99%といったところです。比率で言うと、一番が最も多く、次に二番、最後に三番です。

私のこれまでの経験でいうと、面白いことに学者の方や研究者の方は三番比率が圧倒的に高いですね。

それでは本の続きです。

すべての人間は人間1番から3番で生まれる

すべての人間は第一番、第二番、もしくは第三番として生まれる。

人間第四番は生まれついてのものではない。彼は第一、第二、第三番として生まれ、ある特定の性質の錬磨の末、初めて第四番となるのだ。

人間第四番は常にスクールでの修練の産物なのだ。彼は第四番として生まれることはできず、また偶然にか、あるいは養育や教育その他の普通の影響によって発展することもできない。

人間第四番は人間第三番までとはすでに違ったレベルに立っている。彼は恒久的な重心をもっており、それは彼の考え、修練に対する評価、及びスクールとの関係から成る。

しかも彼の精神的諸センターはすでに均衡をとり始めている。つまり彼の場合、最初の3つのカテゴリーに入る人々の場合のように、一つのセンターが他のセンターに対して優勢を占めるということはありえないのだ。彼はすでに自分自身を、そして自分がどこに行きつつあるかを知り始めたのだ。

 

はい、ここも重要なポイントです。

「すべての人間は人間1番から3番で生まれる」とあります。私が見たところでは、赤ちゃんの頃は全員一番。中高生になると二番、成人すると三番といったように、年齢とともに発展していきます。

ちなみにこれはどうやって見ているかというと、幼少期の写真を持ってきてもらって、その写真で判定しています

ところが、人間一番のまま成長が止まっている人も少なくありません。よくトラブルや揉め事を起こしているご高齢の方を見てみると、一番のまま止まっているということもあります。

外見は年をとっていても、中身が赤ちゃんと変わらなければ、他の人と調和できずトラブルなどを起こしてしまうことも頷けますよね。

一方、人間四番は努力の賜物である、とグルジェフは述べているのですね。

次に進みましょう。

 

人間五番以降の結晶化

人間第五番はすでに結晶化している。彼は、人間第一、第二、第三番が変化するようには変化しない。

しかし、人間第五番は正しい修練の結果でもありうると同時に、誤った修練の結果でもありうるということに注意しなさい。彼は第四番から第五番になることもできるが、第四を経ずして第五になることもできるのだ。

そしてその場合には、彼はそれより先に発展することはできない。つまり第六番、第七番になることはできないのだ。

第六番になるためには、彼は結晶化した本質を再び溶かし、人間第五番としての存在を意識的に失わなくてはならない。そしてこれは、ただ恐るべき苦痛を通してのみ成就できるのだ。

幸運にも、このような誤った発展のケースは、非常にまれにしか起こらない。

このように人間を7つのカテゴリー、あるいは7つの番号に分類すると、他の方法では理解できない非常に多くのことが説明できるようになる。

この分類は、人間に適用された相対性の最初の概念を与えてくれる。事物は、それを受け取る視点をもつ人、あるいはそれと関係をもつ人のタイプによって、あることにもなれば他のことにもなる。

 

はい、ここまでで人間一番から七番までの説明が終わります。

グルジェフは、人間四番を飛ばして人間五番になることは不可能ではないが、非常にまれにしか起こらないと述べています。

つまり基本的には、人間一番から、二番、三番、四番、五番といったように階段を登っていく。意識レベルが発展していくのが通常だということですね。

それでは早速次に進みましょう。

真の知識とは何か

これにしたがって、人間のあらゆる内的外的表現、人間に属するすべてのもの、また彼によってつくりだされるものすべてが、7つのカテゴリーに分類される。

これによると、知識第一番というものが存在すると言えるだろう。これは模倣や本能に基づき、暗記され、詰めこまれ、ねじこまれたものだ。もし人間第一番があらゆる意味で第一番であれば、彼はすべてをおうむか猿のように習得するのだ。

人間第二番のもつ知識は、単に彼の好きな知識にすぎない。彼は嫌いなものは知らないのだ。常に、また何によらず、彼は楽しいことを求めている。もし彼が病的な人間であれば、反対に自分の嫌いなもの、自分を不快にさせたり、不安や恐怖や嫌悪を呼び起こすものだけを知ろうとするだろう。

人間第三番の知識は、主観的な論理思考や言葉、字義にこだわる理解に基づいている。それは本の虫の、学者ぶった人々の知識だ。人間第三番は、例えば、アラビア文字のアルファベットがマホメットのコーランの中にそれぞれ何回出てくるか数えたり、これに基づいてコーラン解釈の全体系を組み立てたりしている。

人間第四番の知識は、これとはかなり違っている。彼の知識は人間第五番からくるもので、その第五番は第六番から、第六番は人間第七番から知識を受けとっている。しかしもちろん、人間第四番は自分の力に応じて理解できる知識だけを理解するのだ。

とはいえ、人間第一、第二、第三番に比べると、知識における主観的な要素から自由になり始め、客観的な知識への道を動き始めている。

人間第五番の知識は、包括的な、分割できない知識だ。彼は今や一つの分割不能な〈私〉をもち、彼の知識はすべてがこの〈私〉に属している。彼は、別の〈私〉が知らないことを知っている〈私〉をもつことなどできない。彼の知っていることは彼の全体が知っているのだ。彼の知識は人間第四番の知識よりも客観的な知識に近づいている。

人間第六番の知識は、人間に可能なものとしては完全な知識だ。ただそれは失われる可能性がある。

人間第七番の知識は彼自身の知識であり、それは彼から取り去られることはありえない。それは〈すべて〉についての客観的かつ完全に実践的な知識なのだ。

 

ここまででグルジェフは、人間だけではなく知識についても一番から七番があると述べています。

知識一番は丸暗記の知識、二番は自分の好きな知識、三番は論理的な知識。
これと一線を画すのが四番以降です。

四番以降になると主体的な要素から自由になり、客観的な知識へと変化していきます。最高レベルが七番で、七番までくると、全てに対して客観的かつ実践的な知識を持つことができると述べています。

私たちが目指していきたいのは四番以降ですね。

それでは、続きです。

存在についても全く同じことが言える

すなわち、人間第一番の存在、つまり本能と感覚によって生きている人間の存在があり、人間第二番の存在、つまり情緒的、感情的人間の存在があり、人間第三番の存在、つまり合理的、理論的な人間の存在がある等々ということだ。

なぜ知識は、存在から離れることができないのかはきわめて明瞭だ。人間第一、第二、第三番は、彼の存在ゆえに人間第四番、第五番、そしてより高次の人間の知識を所有することができないのだ。君たちが彼に何を与えても、彼はそれを彼流に解釈し、あらゆる観念を彼自身のいるレベルにまで引き下げてしまうだろう。

 

ここでは人間の存在についても出てきましたね。

次に進みます。

芸術や宗教、科学の7つの分類

 

この7つのカテゴリーへ分類されたのと同じ序列が、人間に関するすべてのものに適用されなければならない。

すなわち、芸術第一番があり、それは人間第一番の、模倣的なまる写しの芸術、あるいは原始人の踊りや音楽のように粗雑なまでに原始的で感覚的な芸術だ。芸術第二番は情緒的な芸術であり、芸術第三番は知的な、捏造された芸術であり、そして芸術第四番、第五番等々と続くに違いない。

全く同様に、人間第一番の宗教がある。それは儀式と典礼、壮麗かつ燦然たる供儀や祭祀から成る宗教か、あるいは反対に、陰うつで残酷で野蛮な傾向をもつ宗教だ。

人間第二番の宗教は、信仰と愛と崇敬、衝動と熱情の宗教であり、それはすぐに〈異教徒〉と〈不信心者〉の迫害と弾圧と皆殺しの宗教へと変容する。

人間第三番の宗教は知的で論理的な、吟味と証明を伴う宗教で、論理的な推論、考察、解釈に基づいている。宗教第一、第二、第三番が実際に我々が知っている宗教のすべてである。

この世界で人々に知られ、また存在するあらゆる宗教や宗派は、これら3つのカテゴリーのどれかに属している。

人間第四番の宗教、あるいは人間第五番の宗教などがいかなるものか、我々は知らず、また我々が今のままにとどまる限り知ることはできない。

科学や哲学など、人間の生活や行動のあらゆる表現は、同様に7つのカテゴリーに分けることができる。

しかし、人々が話している普通の言語はこの分類から非常にかけ離れており、そのために人々は互いに理解しあうことがひどく難しいのだ。

 

はい、ここまででグルジェフは、芸術、宗教、科学や哲学についても例を出しながら一番から七番まで説明をしています。

一番から七番というのは、同じ分野であっても全く別物です。

しかしながら、この一番から七番を説明する言語がないため、別のレベルにいる人が同じ分野について話し合っても、通じないのは当然です。

例えば芸術作品を見た時、人間一番の人は「すごく刺激的な作品ね」と言うのに対し、人間二番の人は「この作品すごく感動的ね」と言い、人間三番の人は「この作品の構図は見事だ」と言うでしょう。

このように同じものを見ていても、人によって感じ方は全く違うわけです。

以上が本からの引用でした。

意識レベルが示す覚醒度

グルジェフは、一見同じように見える物でも「7つ」のレベルが存在しているということを、分かりやすく説明してくれています。

この記事を読むことで、この新しい物差しがあなたの中に作られたと思います。これは物事を7つのレベルから見てみるという物差しです。あなたは今から、この新しい物差しを使って色々な物事を見ていくことができるというわけです。

ここからは私の見解なのですが、グルジェフのいう意識レベルは覚醒度と比例しており、覚醒とは、この人間7番を目指していく試みに他なりません。

実は私が一番驚いたのは、過去に悟りを開いたとされる偉人を見てみると、人間第7番の反応があったことです。

実は私も幼少期には1番、大学生頃には3番になっており、それ以降は霊的修行を通じて、意識レベル・覚醒レベルの階段を一歩一歩登っていきました。

人間四番を目指しましょう

覚醒というと曖昧で目標も定めにくいですが、簡単にいうと、まず人間四番を目指しましょうというわけです。

こう聞くと、イメージがしやすいですよね!

人間四番を目指す方法は色々ありますので、また別の機会にお話ししたいと思います。

はい、ということで今日はグルジェフと覚醒レベルのお話でした。

今日のお話を聞いて、気づいたことやこれから意識していきたいこと、ご感想などがあれば、このコメント欄に記入してください。書くことで意識付けされて、あなたの目覚めが加速していきます。

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
またお会いしましょう。瑠璃でした。