「天国への階段」悟りを開いた人々の秘密とは?

こんにちは、瑠璃です。
今日は、天国への階段~悟りを開いた人がやっていたこと~についてお話します。
あなたは、悟りを開いた人たちが、他の人とはどう違うのかについて知りたいと思ったことはありませんか。
キリストや仏陀などを始め、聖人やマスターと呼ばれるような存在たちは、どのような価値観を元に、何を想い、どのように生きていたのでしょうか。
彼らが決定的に他の人と違っていたこととは何でしょうか。
「悟りを開く」とは「心の迷いが解けて、真理を会得する」こととされます。
悟りを開くと、物事の本質を自然と知れるようになり、雑念がなく、感情にも振り回されず、他の人とも比較しなくなると言われます。
あなたも、彼らと同じような悟りの道を歩くことができたら、そんな風に感じているかもしれません。
本当に価値のあるもの、真に価値があるものを知りたい。
生きる意味を探している。
本当に価値のあるものについて自分の人生を捧げたい。
どうやってそれを達成する自分になれるかについて興味がある。
もしあなたがそう思っているのであれば、これはあなたのための動画です。
あなたが、これまで様々なことに挑戦しながらも、心からの満足を得られなかったのは、ただ、あなたにとって本当に価値があるものに気づけなかっただけかもしれません。
あなたにとって本当に価値があるものが分かった時、奇跡の人生が幕を開けるでしょう。
ぜひ最後までお読みください。
魂の記憶と感覚
あなたは、自分にとって本当に価値があるものについて理解していますか。
人は生まれながらにして、魂の記憶を持っています。
魂がずっと追い求めてきたもの、それについての何らかの感覚があるのです。
それを言語化できなくても、人は「何となく」「理由はないけれどそんな風に感じる」とあなたに向けて訴えかけてきます。
私はある時、ふと窓の外の建物を見ていたらこんな考えに襲われました。
「なぜ四角く角ばった建物ばかりなんだろう」
「本当は建物はもっと丸いはずなのに」
その時、私の心の中にあったのは、まあるい、円形のこの世では見たこともないような美しい薄いピンクや紫を基調とした幻想的な建物でした。
これは明らかに私の顕在意識や潜在意識の外から来た感覚でした。
魂が見てきた風景を、そこに私も見ていたのです。
魂の感覚と周囲の違和感
特にまだ子供の頃は、十分に人格が形成されておらず、魂の感覚が残っている状態です。
人は成長していく過程で、周りの環境や世の中の価値観などにより、人格を作り上げていきます。
その前段階である比較的幼い頃は、魂としての記憶が残っており、自分の魂の欲求に最も忠実である状態です。
ところが、いったん、他の人の言動、大人や世間の価値観に触れ始めると、自分の感覚と、他の人が持っている感覚が違うことに気づき始めるでしょう。
人はそれを言葉にはしないかもしれませんが、明確に感じ取っています。
自分の感覚を周りの人が理解することは、彼らにとっては非常に難しいことに気づき始めるのです。
ある女性は、生まれながらにして「なぜ私はこんな場所に来てしまったんだろう」と愕然とした記憶があるそうです。
ある男性は、自分が他の人と違うことに気づいており、親しい友人ができなかったと語ってくれました。
小さい頃から感じていた違和感や疎外感、人から理解されない感覚。
それらの理由は、あなたの本当に大切にしているもの、大切にしたいものが、この世界の人たちの感覚とはちょっと違ったからかもしれません。
目に見えるものと見えないものの価値観
この地球は、物質的なものに価値を置くような世界です。
「形にならなければ意味がない」「目に見えるものでなければ意味がない」。
手に取れるもの、目で見て、肌で感じ、耳で聞けるもの、舌で味わえるもの。
つまり、五感において認識できるものが価値を持つ世界です。
地球における大抵の人は、何の違和感もなく、この価値観の中で生きています。
目に見えないもの、例えば繊細な心の動きや、一瞬一瞬移り変わる感情、高い精神性や道徳観、宗教観について語られたところで、まるで別世界のことのように感じられ、何の価値も感じられないかもしれません。
また、輪廻転生や魂といった目に見えない世界へ興味を持つ方も限られています。
このブログを読んでいらっしゃるということは、そういったことに特殊な感覚を持っている数少ないお一人だと思います。
目に見える世界に価値を置く場所、これが地球という環境です。
これは良い悪いというよりも、個性だと思ってください。
星ひとつひとつに個性があり、そこに住む存在たちひとつひとつにも個性があります。
地球は宇宙の中で見れば、意識レベルの低い範囲に位置します。
私たちは、この環境が唯一の環境であり、これが全てであると思ってしまいますが、広い宇宙を見渡せば、地球という環境は非常に特殊な環境です。
それゆえ、他の星からやってきたスピリットたちにとっては、まるでカルチャーショックを受けたように感じることもあるでしょう。
それが、「こんなはずじゃなかった」「何かが違う」といった違和感として認識されます。
悟りを開く スピリチュアルな生き方
それでは、悟りを開いた人は、何を知っていて、他の人とは何が違ったのでしょうか。
どのように根本的な考え方が違っていたのでしょうか。
彼らは、目に見える世界ではなく、別の世界、つまり普通の人が五感で捉えることのできない世界に価値を見出した人です。
彼らは、目には見えない世界、つまり私たちの五感を超えた世界に価値を見出した人なのです。
彼らが、どこに意識を向けていたかをご存じですか?
彼らはこの世界で何かを成し遂げること、例えば、立派な建造物を作るとか、立派な組織を作るとか、財産を築き上げることではなく、目に見えない範囲において、自分の意識や思考を通じ、その世界を築くことに尽力した人なのです。
私たちは、自分の時間や意識をどこに使うか、どこに向けるか、そしてどこで自分の作品を作るかについて自由に選択することができます。
私たちの人生の一瞬一瞬は、まるで芸術作品を作り上げているようなものです。
どこで何をしていたかという客観的な現実に、あなたがどう感じていたか、それに過去のどんな場面が影響していたかという内側の世界が描かれ、それが現実を多角的に構成しています。
あなたが経験してきたことは、どの一瞬一瞬も、決して他の人が真似することはできません。
他の人では経験できない唯一無二の作品を、あなたは一瞬一瞬作り上げてきたのです。
そうしてそれは、宇宙へと記録されます。
キプロスの賢者、ダスカロスはこんな風に述べています。
「物質世界全体は、マインドの『超資質』の中にあり、それは常にすべて起きていることを記録している。」
私たちは、思考や感情や意識を使い、光の入らない牢獄のような環境を作ることもできるし、美しい宮殿を作ることもできます。
問題は、それをどの世界で構築するかです。
それをどこで作るかも選択することができます。
目に見える世界と見えない世界
物質世界の中で、あなたが思考や感情、意識を使い作り上げることを選んだならば、それは、あなたという人格やキャリアや空間を構成する物質となって、あなたの人生を彩ってくれるでしょう。
もしあなたが目に見えない世界で思考や感情、意識を使い作り上げることを選んだならば、それは、あなたの魂や神への信仰や崇高な精神となり、あなたの故郷へと戻る道を指し示してくれるでしょう。
あなたが真に求めているものはどちらでしょうか。
正直なところ、どちらも欲しい、と思うかもしれませんね。
では、あなたの魂が求めているものはどちらでしょうか。
もし、あなたが悟りや覚醒というワードに興味があるのであれば、あなたがずっと欲しかったものは、目に見える世界では手に入らないものだと知っていたのかもしれません。
悟りを開いた人たち、彼らは地球の意識レベルの遥か上まで到達した人物であり、地球の意識レベルを超えたところで生きていた人たちなのです。
彼らがいた世界は、通常の人には認識できませんから、彼らが本当はどこで何をしていたか知る人は少ないでしょう。
天国への階段
悟りを開いたとされる人たちは、座禅を組み、目をつぶりながら、ただそこにいることで、端から見れば何も成しえていない、何も価値のあるものを成し遂げていないと思われていたかもしれません。
でも、彼らは目に見えない世界において、彼らの作品を作っていたのです。
彼らは自分が戻る場所へと続く道を、じっと座っている空白の時間で自ら作り上げていたのです。
それを私は天国への階段と呼んでいます。
見えない世界において、神へと戻る道をひとつひとつ作り上げる。
まるでレンガをひとつずつ積み重ねるように、天へと繋がる階段を作り上げる。
見えない世界における作品は荘厳な面持ちでそびえ立ち、まるでこの現実とは変わらないくらいリアルに感じられます。
木材や釘を持ってきて自分の家を作るように、私たちは、意識において自分の戻るべき道を作ることができます。
そうして、それが誰かのための道となるのです。
過去に悟りを開いたとされる偉大な人物たちは、みな、意識の中でこの天国への階段を作っていました。
大衆が、目に見える世界で手に触れられるもの、物質に心を奪われる中、彼らは、目に見えない世界の方が大切であることに気づき、目に見えない世界において成すことが見えていた人たちなのです。
聖書のなかで、イエス・キリストはこう言っています。
「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイによる福音書19.23-24)
らくだが針の穴を通ることはまず不可能であるように、それ以上に金持ちが天国に行くことはまず不可能だ、と言っているのです。
キリストはお金儲けを嫌い、天国に行きたいなら、お金と財産をすべて手放しなさい、言ったとされています。
でも私は少し別の観点から解釈をすることもできると思っています。
これは一般的な解釈とは異なるかもしれませんが
お金持ちの人は、見える世界で何かを作ったり、何かを成し遂げたりすることに人生の大半を捧げてきた人たちです。
お金というのは、現実世界のものですから、沢山お金を作り出すということは、この現実世界に意識を集中させてきた人たちなのでしょう。
ですから、神の国において、何かを作ったり、何かを成したりすることには一瞬たりとも時間を使ってこなかったと思われます。
ですから、当然、神の国に入ったところで、上るべきはしごがない、というか道がないのです。
そこでは何の知識も、何の知見も、経験もないのですから当然です。
ですから、そこでどちらに行けばよいか、右往左往してしまって当然でしょう。
悟りを得た人々、彼らは神の国において、意識という材料を使い、神へと続く階段を作ることに人生の大半を捧げてきました。
そうして、彼らの肉体が死を迎えた時、彼らはそれまで何百時間、何千時間をかけて作ってきた天国への階段を登り、本来の居場所へと帰っていったのです。
彼らは、自分の肉体が死を迎えた時、この天国への階段が、自分の魂が元の場所へ還る道であると知っていました。
死を迎えた時、魂が迷わなくて済むように、前もってこの天国への階段を作っておくことに尽力していたのです。
これこそが最も価値のあることだと知っていたのです。
自分の魂が元いた場所へと確実に戻れること、地球の輪廻転生の中から抜けだすこと。
そうして、自由意志を取り戻し、転生を終わらせることこそが真に価値のあることであり
時間を費やす価値があると知っていた人なのです。
彼らは、地球上での転生を終えた後も、長い長い人生が続いていくことを知っていた人たちです。
彼らの力は、自分の力を取り戻し、人生における主導権を取り戻すことを選ぶ強い決断に支えられていました。
マスターと呼ばれる人たち
世の中の悟っている人には、大きく分けて2つのタイプがあると考えられます。
ひとつは、肉体の中に入っている間に、魂が覚醒し目覚めていったケース。
もうひとつが、覚醒し、目覚めている魂が、肉体の中に入って肉体を操縦しているケースです。
マスターと呼ばれるような人たちは、このいずれかに該当します。
悟りを開いた人といっても、元々悟りを開いた存在が肉体に入っている場合があり、私はイエス・キリストはこちらのタイプに該当するのではないかな、と思っています。
彼らは、天国への階段を下って、高次の世界からこの世界へと降りてきました。
そうして、私たちの人格を、神の雛型に向けて一致させることがどのようなことであるかを示したのです。
最近、インディゴチルドレンや、クリスタルチルドレン、レインボーチルドレンなどの名称について言われていますが、新しい世代に移り変わるにつれて、覚醒し、目覚めている魂が、肉体の中に入って肉体を操縦しているケースが増えているように感じています。
肉体が若い頃から、つまり幼少期から非常に目覚めている魂がちらほら見受けられるからです。
こういったケースでは、見えない世界の見地から、何かを私たちに伝えようとしているケースもあるでしょうし、様々な目的があるでしょう。
みんな役割がある
あなたが、ひょっとして、この地球に意図せずやってきたのかもしれません。
何らかの拍子に別の惑星から来て、地球での人生をスタートさせ、他の人に合わせながら、みんなの中に紛れ込んで生きてきたのかもしれないのです。
あなたは他の人のように、この見える世界で何かを達成することや、何かを成し遂げることに対し、心からワクワクできるような感動を得られなかったのかもしれません。
それは、あなたの価値観が他の人とは違っていたからかもしれません。
あなたは、目に見える世界の中よりも、むしろ目に見えない世界において価値を見出していたからと考えられないでしょうか。
ひとそれぞれ、価値観があります。
物質的に豊かであることに満足感を得る人、他の人と同じであることに安心感を持つ人。
もしあなたの価値観がそれとは違っていたとしても、それらに合わせる必要も、自分を曲げる必要もありません。
みんなと一緒である必要はありません。
みんなと同じであることを自分に強要することは、自分の魂の本質を押し殺す行為です。
この世界のどこを探しても、あなたに合う価値観が見つからないのであれば、見えない世界の中を探してください。
そうして、その世界で生きることに、あなたの人生を捧げてください。
魂としての渇望
ということで、今日は「天国への階段~悟りを開いた人がやっていたこと~」についてお話しました。
私は小さい頃から、ずっと疎外感を感じていて、自分の欲しいものがこの世の中に無いということに気づくまで30年以上かかりました。
きらびやかな物を持っても、社会的に安定的な仕事を持っても、他の人と同じようにパーティーをしてもカラオケをしても、とにかく本当の満足とは程遠いものでした。
それらは一時的な楽しさであり、しばしばそれは刹那的な楽しみでしかありませんでした。
ひょんなことから、ある人にそのことを話すと、「それは求めていたものをこの世界で与えてくれる人がいなかったからじゃない?」と言われました。
そうして、自分の欲しいものが、この世界の価値観の中には存在していないことにようやく気付けたのです。
そうした魂としての渇望が、今の環境に繋がっているのかもしれません。
だから、大切なのは、魂としての渇望です。
ぜひそれらに耳を傾けてみてくださいね。
今日も最後までご覧いただきましてありがとうございました。
真実の向こう側、愛と平和な世界へ。
瑠璃でした。