科学では説明できない『私』という存在の秘密

こんにちは、瑠璃です。
今日は「脳を超えた世界」についてお話します。
あなたは意識について不思議に思ったことはありませんか?
私たちの心とは、意識とはいったい何でしょうか?
意識と脳はどのように関係しているのでしょうか?
今日は、これまでの社会の変遷をたどりながら、脳を超えた世界には一体何があるのかについてお話したいと思います。
実はここにこそ悟りの偉大なヒントが隠されているのです。
・覚醒を目指されている方
・不安の根源を知りたい方
・科学的な見地とスピリチュアルな見方を融合させたい方
という方にぴったりの内容となっています。
ぜひ最後までお読みください。
失われた魂
あなたは意識とは何だと思いますか?
意識と脳はどのように関係していて、悟りを開くためにはどうすればよいのでしょうか?
近代の主要な見方から考えてみましょう。
近代を特徴づけるもの、それは資本主義であり、物質主義であり、神の死です。
マックス・ウェーバーはこれを「世界の脱魔術化」と述べました。
近代以前、世界は呪術的で、神話的で、神によって機能していました。
スピリチュアルな世界の存在が受け入れられていたのです。
ところが、近代になり、あるひとつのムーブメントが巻き起こりました。
それが「科学万能主義」です。
感覚が科学に入れ替わり、感情が物質に変わり、科学は、これまで100万年以上にわたり信じられていた「霊的な世界」を完全に否定してしまったのです。
科学的視点の限界
現代は、科学的な立場、唯物論的な立場から見れば、すべては物質からなるシステムへと還元することができます。
物質はエネルギーと相互変換できますから、より正確に言えば、すべては物質とエネルギーによって成るシステムへと還元することができる、ということです。
唯物論的な立場からすれば、世界の全ては物質とエネルギーの集まりにすぎないのです。
この結果、心も、魂も、スピリットも、無味乾燥な物質へと変換され、いえ、変換すらされず、除外され、その存在を消されてしまいました。
こう聞くと、とても否定的に聞こえますが、実は喜ばしい面も伴っているのです。
今では、政治的または宗教的な制約なく、科学的に正しいものであれば「正しいもの」として世間に認められるようになったからです。
これは一昔前では考えられなかったことです。
中世においてイタリアの天文学者、ガリレオ・ガリレイは。
望遠鏡を覗いて捉えたものを自由に発表することができませんでした。
なぜならそれをカトリック教会が許さなかったからです。
当時認められていた「科学」は、教会が認めた「科学」でありそれ以外の科学は許されていなかったのです。
天動説が主流だった当時のヨーロッパでは、ガリレオが唱えた地動説は
聖書に書いてあることと矛盾したため、彼は教会の教えに背いた罪で異端尋問を受けることになります。
彼が1633年の宗教裁判で「それでも地球は回っている」と述べたのは有名な話です。
そして、明らかなこととして、ガリレオが唱えた地動説は正しかったのであり、間違っていたのは教会の方でした。
ところが、社会がそれを許さなかったのです。
それから時代は移り変わり
近代になってから、宗教的な道徳観念が取り払われ
自分が観察した結果を自由に発表できるようになりました。
これは科学における自由主義の発達であり非常に望ましいことでもあります。
ところが、その一方、科学万能主義によって多くが失われました。
それは、魂であり、霊であり、スピリットであり
私たちの本質です。
科学は、膨大な臓器がどのようにして相互作用し生命を維持しているのかについては説明してくれますが
どのようにして生命が生まれるのかについて、全く何も説明してくれません。
科学は肉片の塊がある日突然ふっと息をし始め、それが歩き、立ち上がり、思考しはじめ、人を思いやる、と説きます。
果たしてこれは合理的な説明でしょうか?
肉片がいくら集まったところで、生命が誕生するわけではありません。
膨大な肉の塊が集まったとしても、それは生命ではなく依然として肉の塊です。
また、科学は、肉体が朽ちたとき、われわれの意識はどこへいくのかについては全く説明してくれません。
科学によれば、私たちは肉体が亡くなったら、それで終わり、なのです。
科学万能主義の波にのまれた現代人
あなたは、生きるとはどういったことなのか?
人生の意義について、理解していますか?
もしあなたがこれらを理解していなかったとしても、全く不思議でないのです。
なぜなら、現在広く普及している科学主義的なものの考え方に基づけば、人間の崇高な精神とは何なのか、人生の意味や人生の意義について、永遠に不明なまま、学校でも教えてくれないからです。
現代人は科学万能主義の荒波に飲み込まれた結果、かえって崇高な精神を失い、生きる意味を失い、自分とは何なのかが分からなくなり、路頭に迷ってしまいました。
唯物論的な世界観もそうです。目に見えるものが全てであれば、目に見える世界で豊かになれば、私たちは究極の幸せを手にしたことになります。
今は70年前から比べれば、はるかに豊かになりました。食べる物にもあふれ、着る物も住む家にも困りません。
でもなぜ、これほどうつや自ら命を絶つ人が多いのでしょうか。
無視された「私」という存在
近年主流となっている科学主義は、科学的観察の結果得られた客観的事実によって捉えられるものこそが真実であると捉えます。
あなたが主観的に何を思っているかは、科学の対象外です。
なぜなら、それは誰もが合意する観察できる客観的事実ではないのですから。
科学にとってみれば、あくまで客観的に捉えられるもの、例えば原子がどうとか、素粒子がどうとか、社会制度がどうとか、それこそが事実であり、あなたの中で起きている主観的な現実は、真実ではありません。
スピリチュアルな世界や霊的な世界は、科学からしてみれば幻想であり、それらについて語る人は精神疾患なのです。
科学は惑星の軌道について語り、地球から太陽まで移動するために必要な時間について語りますが、肝心の「私の内側で、私がどのように感じているか」については何も答えてくれません。
あなたが、あふれんばかりの情熱に燃えたぎっている時、夕日を見つめてたそがれに浸っている時、出産を終え初めて子供と対面し、喜びと感動で愛おしさを感じている時。
科学があなたの脳の仕組みや機能、神経伝達物質といったあなたに関するすでに分かっている客観的な事実を並べ立てたところで、内側で起こっている神聖に満ちたきらめきは記述できないのです。
そうして、科学の問題点がもう一つあります。それは、様々な感情や思考を見たとき、どれがより高次のものであり、どれが低次のものであるかを順序付けることができないのです。
確かに、脳の活動は脳波計などによって客観的に捉えることができます。でも、科学はそれに優劣をつけることはできないのです。
自己中心的に誰かを傷つけても良い、という脳波と、他人を思いやり、愛と平和な世界へと導こうという脳波がそれぞれ記録されたとしても、どちらがより優れていて、どちらがより価値が高いのか、といったことを読み取ることも、そういったデータを出力することもできないのです。
意識は脳なのか?
意識の状態を脳の状態に換言すればするほど、その分だけ私たちに内在する本当の価値が失われていきます。
もし私たちが喜びをセロトニンへと還元し、思いやりをドーパミンへと還元するように、意識や気づきを神経のネットワークへと還元するならば、私たちはこの宇宙から本当の価値と、神のきらめきを完全に消し去ることになります。
科学の文脈では、脳とは生物学的な肉体組織の一部、物理的な世界の一部分であるとして捉えます。意識とは、脳の機能として説明できるものとします。
でも私たちは、これが直感的な理解と反していることに気づいています。私たちは、自分の意識と体が違うものであると知っているのです。
例えば「心と体の葛藤」という言葉がありますよね。
例えばマラソン大会に出場していて、ゴールまであと少しのところまで来ました。でも体力は限界で今にも倒れそうです。
このとき、肉体側から見れば今すぐに走るのをやめたいわけです。ところが、心はせっかくここまで来たのだから、止まってはいけない、走り続けよう、と何とか肉体を動かそうとするわけです。
それにもし、意識を脳によって説明できるとしたら、薬をはじめとした医学はもっと多くの精神疾患や心身症状を持つ人を救えるはずです。
例えば、意識は脳へと還元できるのであれば、抗うつ剤で脳内のセロトニンの量を調節することによって、もっと不安や心配事から解放される人が増えるでしょう。
でも、肉体的な機能に手を入れたところで、全ての精神的な問題が解決するわけでもありません。
私も実はこれを痛感させられた体験があります。
私はひどい体調不良で、抗不安薬や向精神薬、睡眠薬を飲んでいた時期がありました。当時は、不安感や心配ごとが常に自分を襲ってきているようで、肉体にも深刻な影響が出ていたため、心療内科というものがあると知ったとき、あ、これで私の悩みは取り除かれるんだ、不安から解放されるんだ!と思ったものです。
でも、実際のところ薬によって、根源的な不安が取り除かれることはなく、私は身体以上の何かがあると直感的に知りました。
最終的に、スピリチュアルな世界、つまり魂の領域に足を踏み入れるまでは、この不安はずっと続きました。
物質的な世界を超えた世界、そこに答えがあったのです。
全ての源、スピリット
スピリットが全ての根源であり、そのスピリットを置き去りにしている科学は、本質的なところは何も捉えられないでしょう。
かつてアインシュタインは「科学なき宗教は盲目であり、宗教なき科学は欠陥である」と述べました。
彼は、生命の本質を、宇宙の本質を、分かっていたのでしょう。
私たちによって観察された「現実」は、全ての根源となるスピリットが形を取り、パターンを取り、そして活動した結果であって、存在の大元、大いなる存在は、科学が捉えられる範囲にはありません。
肉体と意識という別々のものがどのようにして相互作用をもたらすのか?
言い方をかえれば、どのようにしてあなたが手を上げようと思ったら、実際に手が上がるのか。
こんな簡単でありふれたことなのに、身体と意識という二元論的な立場では科学はこれを完全に説明できていません。
でも一度スピリチュアルな見方に立てば、容易に説明がつくことに気づきます。
意識も、肉体も、すべてスピリットという同一のものから生まれています。
単に私たちが知覚できる現実、つまり五感で捉えた物質という世界は、スピリットが物質として現れた一部なのです。
物質的な現実も、心の内側にある主観的な現実も、どちらも真実であり、そのいずれも共通のものから生まれているのであれば、それらが互いに影響を及ぼしあうのは、当然のことです。
私たちは生物学的な肉の塊ではありません。
私たちの本質はそれらを乗りこなす意識であり、意識は肉体を超越しています。
それを証拠に、意識は死後も存続しています。
これは数々の臨死体験者の手記によって明らかでしょう。
自分の内側を見つめることの大切さ
私たちは周りのノイズが忙しすぎて、自分の内側に何があるのかを見ることをすっかり忘れてしまいました。
そして、盲目的に特定の見方を原理主義的に信じたり、肉体の感覚を無視し、無感覚や神経症に陥ったり、自分の内なる声を聴くことを忘れて、自分とは何かが分からなくなってしまいました。
大切なのは、科学がこれまで述べてきたように観察できる客観的な状況というよりも、むしろ「私」という個がどう感じているか、私の中で何が起こっているか、なのです。
覚醒の過程とは、徹底的に自分の中を感じ、理解し、そして変える必要があれば変更を加えていく試みです。
みなさん最初は気が進まない様子で、「いまさらそんな風に見たくありません」「どうせ見たところで大したものは出てこないんでしょ」といいます。
でも、いったん自分の奥底を見つめると、これまで見てこなかった膨大な自分自身がいることに気づきます。
こんな自分もいたんだ、こんな感情もあったんだ。これも私、これも私、、、
そう、客観的な事実や知識や情報に基づいて捉えた「私」「世界」ではなく、直接的に把握することができるようになるのです。
「直接知」という美しい能力
私たちは全てを知っている。
「直接知」これは美しい言葉です。
世の中で信じられている常識でも、社会通念上の道徳観念でも、誰から聞いた話やどこかで読んだ本ではなく、直接、答えが分かるのです。
今私たちに大きく欠けているのはこの能力です。
人生においてどちらの方向へ行くべきかの答えも、メッセージを受け取るのも、スピリットと会話するのも、全てこの「直接知」という能力によってもたらされます。
私はこの直接知を知ってから人生が大きく好転しました。
自分の中を見つめ続けていると、やがて奇跡が起きます。
突然、自分の中で何が起こっているのかを理解し始めます。
これまで当たり前だと思っていた無味乾燥とした物質世界から抜け出し、自分が感じたもの、自分の中で起こったことを真実として認められるようになるのです。
例えそれが、科学で証明されていなくても、たとえそれが目では知覚できないものであったとしても、他の人から理解されなかったとしても、あなたは新たな真実を見つけたのです。
まとめ
ということで、今日は「脳を超えた世界」についてお話しました。
今日のテーマは私も大好きなテーマだったので、お話できてとても嬉しかったです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
それではまたお会いしましょう。
真実の向こう側、愛と平和な世界へ。
瑠璃でした。