未来は選べる?時間と意識がつなぐ新しい可能性

こんにちは、瑠璃です。
今日は「時間とは何か」についてお話しします。
あなたは、時間は過去、現在、未来へと目の前を過ぎ去っていくものだと思っていますか?
時間の一本の矢は、過去から未来へと流れていて、私たちは時間を巻き戻すことも、進めることもできない。
では、未来について、運命についてはどうでしょう?
未来はあらかじめ決まっていて、私たちに自由意思はないと思っていますか?
果たして、私たちが「時間」と感じるものは本当に実在するのか?
今日は、私たちの直感を覆す時間についてお話します。
今日の記事を読むことで、あなたの時間に対する既存の概念が大きく変わるでしょう。
ぜひ最後までお読みください。
それでは、今日の本題です。
現在主義と永遠主義
私たちの世界では、時間は過去、現在、未来に分けられます。
過去は通常、不変であり、未来はまだ決まっていません。
時間の経過とともに、かつて現在であった瞬間は過去の一部になり、未来の一部は新しい現在になります。
このように、現在から未来へと向かって進み、現在が過去として後ろへ残される。
時間という枠組みを捉える考え方に、「現在主義」と「永遠主義」があります。
現在主義は、現在のみが存在すると説きます。
その代わり、何が現在であるのかが時間とともにただ変化するだけです。
過去と未来は存在せず、存在するものは全て「現在」です。
現実主義においては、存在するのは現在の物体だけで、過去や未来の出来事は存在しません。
もし存在するもののリストを作ったら、過去の出来事も未来の出来事も入っていないでしょう。
これは目に見えるものしか信じないという、非常にシンプルな考え方に思えます。
もうひとつ、「永遠主義」と呼ばれる考え方があります。
永遠主義では、過去と未来の両方の物体もまた存在すると説きます。
未来の物体も、現時点ではそれらを見ることができなかったとしても、それでも存在するもののリストに載っているのです。
つまり、時間的な位置が過去か未来か現在かについては、その物事が存在するかどうかには影響を与えません。
例えば、あなたが1日前にコンビニでコーヒーを買ったとしましょう。
すでにそれを飲み切って捨ててしまったとしても、そのコーヒーは存在する、と考えるのです。
永遠主義における時間における全ての存在は、等しく現実的であり、
時間は空間と同じように存在し、未来も他の場所がすでに存在しているように、すでにそこにあると考えます。
つまり、客観的な時間の流れは存在しません。
私たちが普段知覚する方法は、時間の経過によって三次元空間が変化する様子ですが、
この永遠主義は、時空を不変の四次元「ブロック」として説明するため、
「ブロック時間」または「ブロック宇宙理論」と呼ばれることもあります。
時間は幻想である
時間に関する有名なもののひとつに、マクタガードの「時間の非現実性」というものがあります。
マクタガードの「時間の非現実性」の中で、彼は「時間は幻想である」と述べています。
1908年に発表された有名な論文で、J.M.E.マクタガードは、
実際には時間というものは存在せず、世界に対する時間的秩序の出現は、単なる見せかけに過ぎないと主張しました。
彼は、時間の位置を順序付ける2つの方法を区別することから始めます。
まず、時間の位置は、「2日未来」「1日未来」「現在」「1日過去」など、
その特性に応じて順序付けすることができます。
これに沿って考えると、例えば
1日未来:家族で食事をする、現在:料理をする、1日過去:食材を買う
といった形になります。
これは、どの出来事が現在で、どの出来事が過去で、どの出来事が未来なのかによって順序付けられます。
もし、どれが過去で、どれが現在か、どれが未来なのか分からなければ、
1日未来:食材を買う、現在:家族で食事をする、1日過去:料理をする
のように順序がぐちゃぐちゃになってしまうかもしれませんよね。
このように、過去、現在、未来にそれぞれの出来事がはめられていき、
ひとつずつ過去から現在、未来へと常に変化していきます。
これらの捉え方を「A系列」と呼びます。
私たちは、過去、現在、未来の違いを重要視しますよね。
例えば、大嫌いな上司との面談は、もう終わったのか、それとも未来にあるのかが問題ですよね。
大好きなアイドルのコンサートに行くのは、すでに終わってしまった出来事なのか、
それとも明日待っているイベントなのか、それによって心の状態も変わるでしょう。
起こった(起こる)出来事は同じであっても、私たちの意識は、
それがすでに終わったことなのか、それともこれから起こることなのか、
つまり、過去なのか未来なのかへ向けられます。
彼らは、時間は流れたり過ぎ去ったりするもので、空間の次元とは非常に異なるものだ、
という考え方に立脚しています。
宇宙は空間的な三次元に広がっていますが、時間は空間次元とは全く異なる種類の次元と捉えます。
そして時間の経過は現実であり、心とは無関係の現象である、と説きます。
一方で、これとは全く異なる別の時間の捉え方があります。
それが、2つの関係によって出来事を順序付ける、という方法です。
例えば、「旅行バックを買った後に旅行に行く」といった感じです。
この一連の時間を「B系列」と呼びます。
B系列では、どの出来事が前に、どの出来事が後に来るかによって順序付けられます。
「旅行バックを買った後に旅行に行く」のであって、
「旅行に行った後に旅行バックを買った」わけではないですよね。
このB系列を指示する人は、全ての変化は前後で説明できると考えています。
彼らは時空を、さまざまな場所で出来事が発生する広がった多様体として考えます。
変化の世界に生きるということは、多様体の変化のある世界に生きることを意味します。
例えば、木の葉の色が変わったということは、
多様体の初期の場所では葉が緑で、後の位置では赤です。
この場合、場所は多様体内の特定の時間です。
この考え方は、アインシュタインが提唱した有名な理論、特殊相対性理論と整合性が取れた形です。
特殊相対性理論では、過去、現在、未来の区別はありません。
特殊相対性理論は、これまでのニュートン力学による時間と空間が絶対的なものであるという考えを打ち砕き、
時間は絶対的なものではなく、運動によって変わると述べた画期的な理論でした。
そして現在、この考え方が主流となっています。
このB系列を指示する人たちは、時間の経過という考えを否定し、
代わりに時間は空間のような次元であるという考えを取ります。
これはどういうことか。
空間は、動いてはおらず、いつもそこにあって、時間のように「流れて」はいませんよね。
これと同じように、時間に動的な側面はなく、時間は経過しないのです。
もし時間は経過しないとしたら、過去のあなたについてはどう考えるのでしょう?
この考え方を取るならば、あなたは過去から未来までを網羅した全ての時間的部分の融合です。
あなたが今座っているということは、
あなたは現在時間において座っているという部分を持つがゆえ、今座っているのです。
これを「四次元主義」と言います。
四次元主義とは、異なる時間に存在する物理的な物体は、
その物体が存在する瞬間ごとに異なる時間的な部分を持つ、という考え方であり、
宇宙は4つの類似した次元に広がっており、それらが合わさって統一された四次元多様体、
つまり時空を構成している、という考え方です。
例えば、あなたが部屋を横切り、廊下へ出たとします。
すると、あなたは部屋を横切っているあなた、部屋の中央部分を歩いているあなた、
廊下を歩いているあなたという異なる時間におけるあなたの時間的部分を持っていると考えます。
つまり、あなたの三次元のタイムスライスである時間的部分があります。
でも、正直いってこれは直感に反していますよね?
どんな説明をされても確かに、私たちにとって時間は過ぎ去っているように感じるでしょう。
ただそれは私たちが世界を知覚する方法であり、
私たちから独立した現実の特徴ではないのです。
もし、あらゆるものが停止したら
A系列とB系列、ここまで聞いていただいて、あなたはどう思いましたか?
どちらの方が正しいでしょうか?
もうすこし、A系列について考えてみましょう。
アインシュタインは、時間は相対的であると捉えたのに対し、
それより前、絶対時間が存在すると唱えていたのは、プラトンやニュートンでした。
果たして、全ての物事から独立した「絶対時間」は存在するのでしょうか。
この答えを知るには、この思考実験が役に立ちます。
ある日突然、あらゆるものが停止したらどうなるでしょう?
鳥が空を飛んでいる最中に凍り付き、人が道路を歩いている途中に凍り付き、
惑星や素粒子が軌道の途中で凍り付いたらどうなるでしょう。
そのようなことは果たしてありうるでしょうか?
その答えが「はい」である場合、つまり変化のない時間が存在する場合、
時間は時間内の出来事から独立しています。
この考え方は「時間に関する実体論」または「時間に関する絶対主義」と呼ばれます。
彼らは、時間は時間内に起こる出来事から独立していると考えます。
つまり、時間とは、時間内に起こる出来事によって定義されるものではない、ということです。
これに対し、アリストテレスとライプニッツは、
時間は時間内に起こる出来事から独立してはいない、と主張しました。
この考え方は「時間に関する還元主義」と呼ばれます。
この見方を取れば、時間についての話は、
実は全てが物事や出来事の時間的関係の話に還元できるということです。
時間の一本の矢
時間は過去から、現在を通り、未来へと進んでいく。
この言葉から連想されるのは、時間が一本の線で表せるという考え方です。
ということは、始まりがあり、終わりがある、ということです。
果たして時間には終わりがあるのでしょうか。
アリストテレスは、時間には始まりがないと主張しました。
例えば、仮に宇宙には時間的な始まりがあったという証拠が得られたとします。
それでも、宇宙の始まりが無限に長い空白の時間の後に残ったのか、
それとも時間自体の始まりと同時に起こったのかという疑問は残ります。
時間は一本の線で表さなければならないのか、という問いにも応えなければなりません。
時間は、複数の時間の流れからなり、それぞれが互いに独立しているという可能性についてはどうでしょう?
つまり、時間のあらゆる瞬間は、
自身の時間の流れの他の瞬間と関係があるが、
別の時間の流れとは時間的関係を持ちません。
ひとつの線から、別の線へ移っていくとそのたびに別の時間の流れへと入っていくのです。
真の実在の姿
私の考えは、こうです。
実在の世界では、私たちが知覚しているような時間は存在しません。
私たちは肉体という着ぐるみを着ているがゆえ、
時間を、過去から現在、未来へと過ぎ去っていくように捉えていますが、
この感覚もまた、間違っています。
そして、その中のうち「現在」しか知覚することができないよう、あらかじめセッティングされているのです。
私たちは、肉体という着ぐるみを着て知覚する世界を「実在の世界」と勘違いしてしまいます。
物理学により導き出された結果がしばしば私たちの直感と反するのは、これが理由でしょう。
例えば、地球は秒速30kmで公転しているにもかかわらず、私たちはそんなことは微塵も感じません。
これって、ピストルから発射された弾丸よりもはるかに速い速度、なのですよね。
実際は、ものすごいスピードで私たちは常に動いているのです。
ところが、どう考えても、そんなに速く自分が動いているなんて感じないでしょう。
私たちが肉体というフィルターを通じて知覚できる世界は、全体の1%以下です。
まるで、小さい覗き穴から、世界を見ているような感覚です。
私たちは事実上、盲目なのにもかかわらず、
肉体を通じて得た知覚によって構成された世界を「本物の世界」と誤認してしまうのです。
これはトリックです。私たちは錯覚させられているのです。
でもここで良いニュースがあります。
私たちは本来、意識そのものです。
意識は、肉体の中に縛られていません。
意識は、肉体を通さず知覚することができます。
あなたが肉体を通さず知覚する時、実在の世界がちらっと垣間見えます。
意識そのものになったとき、この錯覚から解放されることができるのです。
そして意識を通じて見たとき、そこには普段私たちが慣れ親しんでいる時間の矢は存在しません。
全てのタイムラインが並んでいて、それらを全て見渡すことができるでしょう。
そのタイムライン上には様々なあなたが見えます。
過去のある時点のあなた、今のあなた、未来のある時点のあなた。
それら全てがあなたという存在を構成しているのです。
そうしてこれらはワンセットになっています。
例えていうなら、過去と現在と未来がひとつの部屋の中に入っているような感じです。
だから、意識の世界では、未来から過去、そして現在と、
まるで部屋の中を任意に動き回るように、好きなように移動することができるのです。
空間内を自由に移動することができるように、時間の中もまた、移動することができるように。
でも、ここでひとつの疑問が浮かびます。
もしあらかじめ、今ここに過去と現在と未来が同じ部屋に入っていたら、
未来はすでに決まっていて変えられないことになりますよね。
でも、あなたが入ることのできる部屋はひとつだけではありません。
あなたはこの部屋から出て、別の部屋へと移動することができます。
すると、そこには新しいあなたのワンセット、つまり、過去、現在、未来があります。
私たちは日常の一瞬一瞬、常にこのタイムラインを移動していると思っていいでしょう。
私たちは、決断によって、意図によって、このタイムラインを、
あるバブルから別のバブルへと移動しているのです。
それぞれのバブルには、過去から未来までのあなたのワンセットが入っています。
つまり、未来はあらかじめ決まっているともいえるし、
自由に選ぶことができるともいえるでしょう。
宿命論~私たちの未来は決まっているのか?
古典的な存在論では、未来に対するあらゆる命題が存在し、それは真か偽のどちらかであり、
未来に関するあらゆる真の命題の集合が存在し、これらの命題が未来をあるがままに正確に記述し、
この未来は常に真であり避けられないことを意味します。
例えば、「佐藤さんは〇〇会社の採用試験に落ちる」という命題が真であるならば、
この未来は避けられないということです。
「フラワーオブライフ」の著者ドランワロ・メルキセデクさんは、著書の中でこんなことを述べています。
彼はある時、自分の生活に天使が現れ、次に何が起きるか事細かに全て教えてくれたそうです。
彼はそれをノートに書き留めておくようにしていましたが、
次の日、本当にその通りに起きるというのです。
最初のうち、それが楽しくて、毎日天使たちに何が起きるのか教えてもらっていました。
ところがそのうちに、いつ何が起きるかあらかじめ分かっている毎日が退屈するようになってきた、と彼はいいます。
やがてあらかじめ分かっている毎日を送ることにうんざりしてきます。
そうしてある日、天使に「もう教えないでくれ」と頼んだそうです。
私たちは、次に何が起きるのかを知ってしまったら、わくわくもドキドキも、感動も失われてしまうのかもしれません。
私たちの知覚が制限されているがゆえの楽しみもまた、あるということなのでしょう。
実は私も、かなりの部分で「あらかじめ決まっている」ところがあると思っています。
それは、今日どこへ行くとか、明日何をするとか、そういった細かなことというよりも、
むしろ人生の流れという大まかなスケールにおいてです。
そしてその決まっている部分と整合性を取る形で、今何を体験するのかが決められているのです。
キプロスの賢者、伝説のヒーラーと呼ばれたダスカロスはこう述べています。
彼は、歩けない人をその場で歩けるようにしたり、破壊された肉体の組織を再構築したりと、
常人では考えられないような偉業を成し遂げた人物でした。
彼はこういいます。「カルマによる病気は、ヒーラーはこれを治せない。」
彼ほどの人物でも、全ての病気を治せるわけではなく、
カルマによる病気はどんなヒーラーにかかっても治せない、というのです。
その人があらかじめ決めた運命には逆らえない、ということなのでしょう。
私は、正しい答えを知ったとき、不思議と涙が出てきたり、悲しいような気持ちになることがあります。
そうしてそれが本当だと分かるのです。
答えは、どこかの文献の中にあるのではなく、自分の中にあります。
自分の意識を使って知りうることができるのです。
あなたがそれに関して知るべきことがあれば、あなたの元に本が差し出されたり、
あなたの元に必要な人がやってきて、その人があなたが知るべきことを話してくれるでしょう。
それがこういったブログ記事である場合もあるでしょう。
私がこのことを知ったとき、これまでこんなに右往左往して、
次に何が起こるかドギマギしながら必死に未来を変えようとしなくてもよかったのにと思いました。
もっと、安心して、リラックスして、自分を信じて、その流れを信頼していればよかったと思ったものです。
私は、時間と必死に戦って、自分と必死に戦って、未来と必死に戦って、常にもがいていました。
でも必要なことは、自分を信頼し、宇宙に委ねることだけだったのです。
もしあなたが、今何かに追われているとしたら、何かにもがいているとしたら、
ただその場で、自分自身の意識を使って、自分の全体を感じてみてください。
するとあなたの意識が拡大し、それだけで心がすっと落ち着くでしょう。
全てを知ったうえであなたがどう生きるのか、それはあなた次第です。
ということで、今日は「時間について」お伝えしました。
ちょっと難しい話が多かったかなと思うのですが、いかがでしたか?
最初から理解できることは少なくても、何度も触れるうちに「ああ、そういうことか!」と気づくことってありますよね。
ちなみに私は片付けが大の苦手なのですが、まだ効率的な片付け方に気づけなかったりします…。
それではまたお会いしましょう。
愛と平和な世界へ。
瑠璃でした。