自分を超える:覚醒が教えてくれる新しい生き方のヒント

こんにちは、瑠璃です。

今日はあなたの覚醒が始まっているサインについてお伝えします。

あなたは覚醒の過程でどんなことが起きるのか知りたいと思ったことはありませんか?
そもそも覚醒って何?という方もいらっしゃるでしょう。

覚醒にあたっては、明確な感覚の変化、世の中の見方の変化、そして生き方の変化を体験します。
今日は、それらをまとめて覚醒すると起きることについてお伝えします。

今まさに覚醒中ですという方も、また改めて目標を明確にしたい方も参考になると思いますので、あなたが体感していることと重なっているか確認してみてくださいね。

それでは今日の本題です。

覚醒すると、どんな感覚になるのか。
覚醒するといったい何が変わるのでしょうか。
今日はそれをひとつずつ見ていきましょう。

1.現実という夢から醒める

覚醒とは、目で見えている世界が全てではないことを明確に認識し、その外へと出ていくことです。
覚醒はまさしく、読んで字のごとく「目を覚ます」という意味ですよね。

何から目を覚ますのか?
今私たちが見ている「夢」から目を覚ますのです。
「あなたは今夢を見ているのですよ」と言われたら、「いったい何を言っているの?」と思うでしょう。

でも、今私たちが見ている現実、というか私たちが唯一見ることのできる現実は、五感というフィルターを通じて見ている夢のようなものです。

私たちはこの三次元という特定の周波数帯のみに合う特殊装置を生まれてから死ぬまで身に付けているがゆえに、世界のほんの一部分しか見ることができません。
そういった意味で、生まれてからずっと夢の中にいるのです。

そして私たちが何かが欲しいと望んだ時、その欲求は基本的にこの三次元世界の中のものを満たすことに向けられているでしょう。

例えば、どうせお洋服を買うなら素敵なデザイン、素敵な見た目がいいですよね。
ボロボロの服にお金を払って買いたいと思う方は稀でしょう。
普段お坊さんが着ている袈裟(けさ)というお洋服は昔はボロボロの布を使って作られていたそうで、着飾る、見栄を張るといった執着からの離脱を表していたそうです。
表面的なものではなく、本質的なものを見なさいよ、という教えだったのかもしれません。

人も見た目や印象で判断されることも多いですよね。
その理由は、五感の世界しか知らないからです。

そのような五感にどっぷりとつかっている私たちは、今見ている以上の世界があるとは思いもせず、ましてやそこに価値があるとは思いもしません。

でも、見えていないものにこそ重要なものが隠されていたりするものですよね。
ですが、特に人生という長期的な視野に立った時、あなたが心底望んでいるのは、この三次元世界の中にはないことに気づく瞬間が来るでしょう。

これが夢から醒めた感覚です。

ゲームのキャラクターから、プレイヤーへ

覚醒し始めると、世界に対する見方、自分に対する見方が変わっていきます。
ゲームで例えるならば、ゲームの中の登場人物ではなく、ゲームのプレイヤーの意識に近づいていく感覚です。

覚醒とは、今ここに肉体がありながら、意識の重点が変わっていくことです。

私たちは生まれてからしばらくは、肉体感覚が優勢です。
肉体というのは、個の世界です。

当然あなたの肉体と、私の肉体は別であり、あなたと私は別々の個体です。
その結果、肉体の意識と一体化していれば、当然のことながら人と競う必要に駆られますし、必然的に自己中心的な生き方になるわけです。
肉体は、自己を生存させるという命題を持っているわけですから、これはもともとそういったプログラムになっており、誰も責められません。

円の中心が肉体、物質的なものだとすると、その円の中心から外側へ意識が移行していきます。
次は目に見えない心、精神的な世界へと、次に魂の世界へと、というようにです。

そのようにして意識がより多くのものを含有するようになるのです。

三次元世界はそれはそれで楽しい世界です。
ところが三次元世界に魅せられ、その魅力に取りつかれると、自己がプレイヤーと一体化し、ここがゲームの世界であったことを忘れ、それが全てになってしまいます。

時間が経つごとに、この三次元マトリックスにどっぷりとはまり込み、「そこから出たい」という欲求すら沸かなくなってしまいます。

それは、肉体というメガネをかけていて、メガネをかけていることが当たり前すぎて、メガネを外すことすら忘れているようなものです。
寝ても覚めてもメガネを付けているので、それを外すという発想すら思い浮かばなくなるのですね。

そしてこの肉体を通じて知覚している世界こそが全てであると自らを自らの手で閉じ込めてしまうのです。

ちなみに、この感覚から抜けるのは容易なことではありません。
でも、このブログを見てくださっているあなたは、日常生活の中でふとした気づきがあったり、これまでとは別の目線で世界を捉えていることに気づくでしょう。
それこそが覚醒の前兆です。

こういった感覚が安定してくるまでには通常、年単位の時間を要します。
ですがその兆しは何年も前からあったことに気づくでしょう。

2.善悪の判断からの解放

ここまでくると、もはやあなたにとって、何が絶対的に正しいとは言い切れなくなります。
そして、これまで間違っていると思っていたものがそうとも言えないことに気づくのです。

覚醒とは、自我が失われ、意識が肉体から離れ、純粋な意識体へと移行していく試みです。
あなたは主観的な見方から、客観的な立場へと移行してきているのです。

ある女性の方が、これまでは自分は周りから毒舌キャラと言われていて、
「〇〇さんはスパッといらないものを切り捨てて、結論を言ってくれるよね」と、その切れ味の良いアドバイスを求めて友人が慕ってくれていたそうなんですね。
ですが、彼女が善悪の判断から解放されると、これまでのように何が白で黒かが分からなくなったそうなんですね。
「それもいいんじゃない」「それがあなたにとっての選択肢なのね」という感覚になり、これまで通り息子に対しても怒れなくなったとおっしゃっていました。

実は、この変化には不安も伴います。
足元がぐらぐらするような不安感を感じさせることがあるかもしれません。
というのは、これまで信じていたものがもはや信じられなくなるからです。

例えば、
・親として子供には厳しく接するべき
・人として、誰も嫌ってはならない
・一生会社のために自分を捧げるべきだ

こういった自己が信じていたものが、ガラガラと崩れ去っていくからです。

例えば、それは政治的な保守派・革新派であったり、宗教や宗派であったり、
個人的なこと、良識のある人物でいること、ちゃんとした親でいること、聞き分けの良い子供でいることなど。

それが取り去られた今、一体何のために生きていけばよいのでしょう。
どこにも帰属していないような不安感を感じさせるかもしれません。
でも、それこそが正しい方向へと進んでいるサインなのです。

私は小さいころから「この世界はおかしい、絶対に変わるべきである」という強い信念を持っていました。
小学生の時から環境問題に興味があり、将来の便益よりも今の便益を優先し、生き物や環境をないがしろにする大人たちを心の中でずっと批判していたのです。
それはやがて自己のアイデンティティになり、私は「このおかしい世界を変える人」という自己と一体化して生きていました。
周りに対して常にジャッジし、常に批判的な態度を取っていました。
今から思えば、魂の影響も多分に含まれていたのでしょう。

でも、ある時から、その信念がもはや私のものではなくなっていったことに気づきました。
というのは、何が正しく、何が間違っているとはもはや言い切れないと気づいたからです。

「この世は間違っている」と強く思うことは、外側に敵を作り出し、また自分の内側にも敵を作り出します。
外側で他人を裁いているように、内側でも自分を裁いているのです。

3.執着の薄れ

覚醒が進んでいくと「まあ、いいか」と、一つのことに固執しなくなっていきます。

まるでこれまでの自分から数段上から見渡している感じです。
「あの時は必死にもがいてたな~」
「あの時は、〇〇が全てだと思っていたな~」
と達観した境地で過去を振り返ることができていることに気づくでしょう。

仏教では、
悟りとは、束縛から解かれて精神が自由になること、迷いを離れ、真実を悟り、完全な精神的自由を得ることを差し、
全ての煩悩による自己の束縛から「解き放たれ」、己を縛る執着から「脱却する」、「解脱」を目指します。

ここで言っている執着の薄れとは、まさしく仏教の教えとリンクするところがあります。
私たちはついつい自分の目の前のことが全てであるとのめりこみ、人やモノや地位に執着し、それらを手に入れるために必死に行動しはじめます。

ところが、この重たい執着こそが、この物質世界に縛り付けてしまうのです。
執着すればするほど、三次元の重たい波動に囚われ、三次元世界を超えた真の実在の世界が見えなくなってしまうのです。

冒頭に述べた、ゲームを外側から見ている感覚。
これが体感できるということは、執着が薄れてきている証拠です。
執着が薄れ、ありのままに捉えられる状態。おそらくあなたもそれを体感しはじめているでしょう。

とはいっても、私は世捨て人になれ、とか、世間から隔絶されて生きるべき、とか、物質的喜びを全て捨てなさい、と言っているのではありません。
この世界での喜びを味わいながら、物質世界のルールをマスターし、物質世界を乗りこなすのも素晴らしいことです。
でも、それが全てだと思ってはいけない、ということです。
なぜなら、所詮この世で得られるものは一時的な存在にすぎないからです。

この世界において永続するものはありません。
物はやがて壊れ、肉体もやがて塵に還り、今大切にしている人間関係もいつしか終わりがくるかもしれません。
お金の価値が紙切れ同然になる時代が来ないとも限りません。

この世界が全てだと思って生きるのと、ゲームの中での話だと思って生きるのとではまるっきり違います。

様々な宗教では、この世が「マーヤ」、つまり幻想であると説いてきました。
ゲームの中で、だれよりも多くの武器を手に入れ、溢れるほどのコインを手に入れたとしても、所詮それはゲームの中での話、なのです。
それを分かったうえでやるのか、それとも分からずにやるのか、それこそが意識の重要な違いであり、たとえやっていることは同じでも「どのように捉えているのか」その内側の感覚が変化していくのです。

世界の裏側を見る

私は覚醒とは、ただ今の現実を楽しむこと、三次元世界の生活を上手くいかせること以上のものだと思っています。
三次元世界を十分に楽しんだら、もうそろそろ卒業したいものです。

そもそも、三次元世界をマスターするためにも、私たちはゲームの登場人物としての主観的な目線では難しいでしょう。
それは、世界が自分だけではなく他者との相互関係によって成り立っているからです。

真の世界は自分を中心とした網目のような世界であり、無数の相互関係の意図によって互いに繋がっています。

ゲームの中の登場人物の目線と、ゲームのプレイヤーの目線、もっといえばゲームの設計者の目線では、どれが一番このゲームをうまく攻略できると思いますか?

もちろん、ゲームの設計者ですよね。
どんな場合にどのように結果がはじき出されるか全て分かっているのですから。

このように目線が上がっていくと、主観的な目線から客観的な目線へと移行していきます。
そうすると落ち着いて、何が起こっているのかを冷静に捉えることができるようになるのです。

ある時私は、友人に「あなたは思いやりのない人ね」と言われてとても傷ついていました。
そして「私はそんな人間じゃない」と心の中で言い返したくなりました。

でも、「私」という個の目線を離れたら、全く別の角度から理解することができたのです。

これがどういうことかというと、今「私」というプレイヤーの一人が傷ついています。
そして、「私」というプレイヤーの立場から「分かってもらえていない、悲しい」と言っている。
「私」というプレイヤーは「自分はそんな人間じゃない」ということで、自分を守りたいわけです。

でも、あくまでそれは私という個の立場からの意見であって、自己弁護し自分一人を守ったところで、所詮それはちっぽけな自分の中の出来事なわけです。

友人は、機嫌が悪くてぽろっとその一言が出てしまっただけで、何も気にしていないかもしれない。
「あ~結局、自分のちっぽけな世界の中で、自分という個の存在を正当化したかっただけだな」と気づきました。

少し目線を上げれば、周りとの関係が見えてきたり、周囲との相互作用が見えてきたりするでしょう。
そして今悩んでいることは、大して問題ではないと気づくかもしれません。

もっといえば、自分が個と一体化するのではなく、ゲーム全体の意識と一体化したら?
友人も含めて、自分となるわけです。

でも、自分がプレイヤーと一体化している時は大変です。
まるで嵐の中にいるように、感情に振り回されたり、状況に左右されたり、周りに振り回されます。

それは視野が狭くなっていて、主観的で、冷静な分析も客観的な評価もできません。

でも、あなたはそこで気づきます。
そして、後ろに下がって、全体像を見ようとします。

そうすると、ゲームの裏側を見るわけです。
「なんだ、こんな仕組みだったんだ!」

覚醒へ向かっているあなたは、こんな感覚を体験したことがあるでしょう。
「あぁ、見ちゃった、分かっちゃった」「そういうことだったの」という感覚ですね。
ここまでくるとかなりの上級者かもしれません。

4.謙虚になる

覚醒が進んでいくと、自分がいかに無力であったかに気づかされます。
これまで自分はできると思っていたその自分の力が、いかにちっぽけなものだったか気づかされるのですね。

「流れに乗る」という表現がありますよね。
それは自力ではなく、他の力を使うということです。

私たちが生きているのは所詮ゲームの中の世界。
そのゲームの外にいる存在たちがいるのです。
彼らは私たちよりはるかに大きな存在で、私たちは遠く及ばない存在です。
私は、彼らをガイドと呼んでいます。

私は、普段ヒーリングをさせていただいている中で、信じられないようなご報告をたびたびいただくことがあります。

例えば、先日いらっしゃったわんちゃんは目が開かなくなり、病院に行ったら目薬を処方されたものの、開かない状態が続き、ヒーリングをしてほしいと頼まれました。
すると、ヒーリングした2時間後くらいにぱっと目が開き、飼い主さんが驚かれていました。

また、娘さんが毎月重い生理痛で薬を飲んでやっと会社に行くものの、腹痛と頭痛で1週間近く辛い日々を過ごしていたということなのです。
そこでお母さんを通じてヒーリングさせていただいたのですが、翌月、痛みがなくジムにも行くことができて驚いているとご報告いただきました。

というか、いつも一番驚いているのは私の方です。
ご報告をいただくたびに「これは間違いなく私の力ではないな」と確信させられています。
私はただの媒体にすぎず、ヒーリングの主体は私ではなくガイドだからです。

客観的に自己を評価できればできるほど、謙虚になっていくのです。

ちなみにヒーリングは、万人が同じように効果があるかといわれれば、そうではありません。
ご本人のタイミング、コンディション、深い意図などの要因が重なり合い、結果となって表れます。

「必ず効果が出ますか?」「期待している結果が得られますか?」と聞かれれば答えはNOです。
でもご本人が「何が起こっても必要だから起きている。全て受け入れます」という、結果についても委ねる覚悟で望まれる場合、いずれ必要な結果を手にするでしょう。

覚醒とは自分を捨てること

 

覚醒の過程で失われていくものがあります。
それは自我です。
これをエゴという人もいるでしょう。
エゴが失われ、もっと大きな自分と一体化するプロセスです。

もしこれを加速する方法があるとしたら、もっとも手軽で、今すぐできる方法があります。
それは、自分が目指すことをすでに経験している人の話を聞くことです。
その人は、あなたがまだ見えていないあなたの可能性について教えてくれるでしょう。

あなたが「私は跳び箱1段しか飛べないです」というところ、その人は
「いやいや、あなたなら10段は余裕ですよ」とか、「いや、跳ぶだけじゃなくて、登るという選択肢もありますよ」とか教えてくれる。
その瞬間、あなたの世界が広がるわけです。
あなたは自分一人では見えない可能性をみることができたわけですから。

つまるところ私たちが一番必要としているのは、自分の可能性を信じること、それを与えてくれる人や機会だと思います。

とはいっても、悟りの道は一本のまっすぐな道ではありません。
途中でくねくね折れ曲がったり、新しいところに出た!と思ったら目の前に見慣れた風景が広がっていたり…。
なんども同じ道を通りながら、意識の進化を図っていくのです。
その道を歩むのに付き添ってくれる人がいれば、あなたは最高の環境を手にしたことになります。

覚醒と三次元世界での成功

私が見ていると、覚醒が進むにつれ、人は客観的な見方を身に付け、執着を手放し、
達観し、浮世離れしていく傾向にあります。
それはその人の価値観が、もはやこの三次元世界に合わなくなってしまうからです。

覚醒したからといって、必ずしも現実世界でうまくいくとは限りません。
もちろん、覚醒を現実世界での成功と定義した場合はこの限りではありません。

器用な方は、あちら側の世界での成功と現実世界での成功を両立できるでしょうが、どちらか一方を選択しなければならなくなる場合もあります。
どちらが良い、悪いではなく、それはその人の選択の問題です。

私の考えは、こうです。
まずは、現実世界のゲームをクリアする。
ゲームをクリアする過程で、自己が自己で生きるという喜び、達成感、充実感を得ることができるでしょう。
その頃には、あなたは自分という主体から離れ、世の中全体を見渡せるようになっているでしょう。

あとはその意識を持って、この現実世界を抜けていくだけです。
そこは完全に新しい世界であり、かつ同時に真の世界です。

ここまでくれば、この世界での楽しみを享受したうえで、次の世界へと旅立つ準備ができています。
でもこれはあくまで個々人の選択の問題です。
私が考える道筋と、あなたにとっての選択は違うかもしれません。

地図のない旅

私は、最初何の地図も持たずに出発しました。
そして結果的に、様々な経験をさせられながら、ここへ到着しました。
私も経験してみなければ分かりませんでした。

だから、最初から分からなくてもいいのです。
今こうして自分の経験を伝えることで、何かしらお役に立てればいいと思っていますし、
覚醒の地図を提供すること、そしてその目的地を指し示すことが私の仕事だと思っています。

今日のまとめ

今日は「覚醒の過程で起こること」についてお伝えしました。
覚醒の過程で起こる見方の変化や捉え方の変化についてのお話でしたね。

私はいつもYouTubeの最後で「真実の向こう側、愛と平和な世界へ」とお伝えしているのですが、
自分にとっての真実を自分にとっての真実と認めること。
これが覚醒の出発点になると思っています。

それが他人と違ったってかまわない。
世間から理解されなくてもいいのです。

だいたい覚醒というワードにピンとくる方は、世間で見れば変わっていて、
一般的な感覚ではあまり理解されなかった方でしょう。
でも、それでいいと思っています。
自分にとっての真実を生きることこそ、全ての出発点になるからです。

恐らくここまで見てくださっている方は真剣に覚醒に向けて取り組んでいただいている方だと思いますので、
ぜひご自身の可能性を信じていただき、これからもまた一緒に学んでいければ嬉しいです。

それではまたお会いしましょう。
真実の向こう側、愛と平和な世界へ。

瑠璃でした。