覚醒の道:目覚めるあなたに待ち受ける試練とギフト

こんにちは、瑠璃です。
今日は、覚醒している人の特徴~覚醒の過程で経験すること~についてお話します。
覚醒の道を歩み始め、自分の意識が変化していくと、それに応じて必ず外の世界も変化していくでしょう。

時には望む変化だけではなく、望まない変化もあるかもしれません。覚醒の道を歩み始める前よりも、さらに大きな困難に直面したり、さらに大きな労力を要する出来事がやってくるかもしれません。
ですが、それこそが正しい道であるサインなのです。

今日は、覚醒の過程で最も大切な、心がけていきたい点についてもお話します。

以下の題目に沿って進めていきます。
・覚醒の過程で起こるお試しというチャレンジ
・乗り越えられる試練しか与えられない
・覚醒する人が困難を経験する理由
・覚醒における犠牲とは何か

今日は覚醒の過程で起こる様々な経験についてお話しますので、あなたの個人的な経験を紐解く鍵となるかもしれません。

ぜひ最後までご覧ください。

お試しというチャレンジ


覚醒の過程では「お試し」と呼ばれる現象が起こりますよね。
自分が気づきや変化を経験すると、それに比例するように、自分が試されるような現象が起こる、ということです。

例えば、あなたが「人の顔色を窺って、誘われたら断れず、自分が本当に一緒にいたい人を選ぶことができない」という悩みを抱えていたとします。あなたは、あるとき、はっとその理由に気づきました。そして、それを変えようと決意します。

すると、まるでその決意を知っているかのように出来事が進行します。めったに人を誘わない会社の部長から「今度、飲み会に来ないか?」と声をかけられるのです。
あなたはいつもの癖でとっさに「はい、ぜひ伺わせていただきます」と言いそうになります。でも、そこはぐっとこらえて「せっかくですが、あいにく参加することができなくて」と伝える選択を意図的に行おうとすることです。

しばらく平和でいたのに、心をかき乱されるような場面に出くわし、「あ~来たな~」と思うかもしれません。こういったこと、あなたも体験されたことがあるでしょう。

実は、このお試しが起こるには、明確な理由があります。それは、覚醒の過程で私たちが努力し、変化し、変容し、より大きな自分になると、力を試される出来事がやってくるからです。

変容を明確に意識している人以外のところに、「お試し」はやってきません。もし来たとしても、無意識的にこれまでと同じように行動するだけで、そもそもそれが「お試し」だとは気づけないでしょう。

これを「お試し」と捉えられるということは、「今度は騙されないぞ!」「今度は、これまでと同じ行動をしないぞ!」と思えている自分でいられている、ということなのですね。

乗り越えられる試練しか与えられない


覚醒が始まると、人は決まってこう思い始めます。「おやおや、始まる前より大変になったぞ」「なぜこれまでよりも大きな困難がやってくるのだろう」。

不思議ではありませんか?前よりももっと楽に生きられるはずなのに。なぜ?そんな風に思うこともあるかもしれません。
それは、あなたの対処できる範囲が増えたからです。

小学生1年生にセンター試験の問題を与えても当然解けませんよね。だから、誰も小学生1年生にセンター試験の問題を渡しません。代わりに渡すのは、鉛筆やクレヨン、日記帳でしょう。

高校に上がって、それ相応の学力を身に付けて初めて、センター試験の問題を解くわけです。

同じように、リングに上がったばかりのボクサーに世界王者級のパンチは飛んできません。そんなことをしたら受けきれず、大変なことになると知っているからです。

でも、世界王者のタイトル戦ならば、本気なパンチが飛んできます。お互いが実力者であることを知っていて、そのパンチを受け止められると知っているからです。

覚醒する人が困難を経験する理由
私たちが「より大きな困難がやってくる」「より試される課題がやってくる」というのは、小学生が高校生に成長するように、私たちが力を付け、対処できる範囲が拡大したということなのです。

私は、成長することは素晴らしいことだと思っています。それは、より大きな力を手にすることができるからです。
例えば、小学生が国の政治を変えるには限界があります。でも、大人ならば、選挙で当選すれば、国会で法律を作り、国の在り方を変えることができます。

成長するとは、より大きな影響を与えられる自分になるということです。より大きな力がある人には、より大きな問題が与えられます。それは、その人に大きなビジョンを描く力があり、解決する力があるからです。

そうしてその問題を解決することで、その人はさらに大きな力を手にするのです。

覚醒における犠牲とは何か


昔から「神は乗り越えられる試練しか与えない」という言葉がありますよね。
聖書にはこうあります。

 

あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。(1コリント10:13)

 

試練があれば、必ず脱出の道もある、ということです。
だから、お試しが来るということは、これまでと同じ出来事を「お試しである」と捉えられているということであり、まさに、あなたの意識が変容していることを示す証拠、あなた自身が拡大している証拠なのです。

真の力とは何か
覚醒における「力」とは何でしょうか。真の力とはいったい何でしょうか。
戦いにおいて人を倒す力ではありません。人を圧倒する力でもありません。自分の考えを押し付ける力でもありません。

真の力とは、自分の偽りを見抜く力です。
私たちは、何度も「嘘をついてはいけません」「人を騙してはダメですよ」と教育されます。でも、そうあなたに言ってきた大人たちも含めて、ずっと嘘を付き続けているのです。

誰に対して嘘を付き続けているのでしょう。家族でしょうか? 上司に対して? お客様に対して?
そうではありません。自分自身に対して、です。

自分の理解する能力が拡大していくと、この巧妙な自分に対する嘘に気づけるようになっていきます。
覚醒が進むと、自分の中の真実に気づくようになるでしょう。それらは、誰が何と言おうと、ずっとそこにあった真実であり、これまで気づくことがなかった真実です。そして、どれだけ自分が自分を欺いてきたかが分かるでしょう。

本当の望みに対して、自分をどれだけ制限していたのか。自分が本当は持っているものを、持っていないことにしていたのか。反対に、自分が本当は持っていないものを、持っていることにしていたのか。

先日、私のところで自己を探求されている方が
「私の人生は、嘘と欺瞞の人生だったことに気づきました」とあっけらかんとおっしゃっていたので
それを聞いて素晴らしいなと思うとともに、思わず笑ってしまいました。

例えば、「私は自分の気持ちに素直に行動している」と思っている人が、どれだけ自分の気持ちに素直でないか知ったら驚くでしょう。あるところでは妥協し、あるところでは自分を抑圧し、あるところでは自分を無視しています。

自分の無力さに気づく


私は、自分というものを客観的に見るようになって、あることに気づきました。それは、自分が自分に対していかに無力であるか、ということです。

例えば、人から傷つけられる一言を言われたとします。でも、その時の気持ちをどうやって処理したらよいのか、どのようにその状況を理解したらよいのか分かりません。友人に愚痴を聞いてもらったり、美味しいものを食べたり、ショッピングして気を紛らわしたり、ストレス発散して気持ちが静まるのを待つ、なんてこともありますよね。

私たちは外の出来事をコントロールしたり、それに手を加えてうまくいかせようとしますが、実際のところ、自分の心の中の天気すらどうすることもできないのです。
にもかかわらず、人のことを変えようとか、変わってほしいとか、相手にこうすべきであると言おうとします。

自分のことすら自分でコントロールすることができない。このことに気づいたとき、なんと恐ろしいことなのかと思いました。
実際、自分の心の中ほど手に負えないものはありません。

年齢を重ねるごとに、自分に対する理解力が増し、自分の内側とうまく付き合えるようになってくる部分もあるでしょう。でも、意外とそれ以外の部分は、小さいころのまま取り残されていたりするものです。私はこれに気づいたとき、自分はなんて無力なんだろうと思いました。

悟り人の話
こんな話があります。ある悟り人が山にこもって座禅を組み、悟りを開きました。彼の心は澄み渡り、一点の曇りもなく晴れやかで、もはや何事にも惑わされることはありませんでした。

下山したこの悟り人は、少々お腹が空いていたため、通りの八百屋で美味しそうな果物を見つけました。その果物をひとつとると、主人が会計をしている列に並びました。ところが、その列に途中から割り込んでくる村人がいたのです。
それを見るなり、その悟り人は怒り心頭で「おい、そこ、割り込むんじゃない!」と声を荒げました。彼の澄み渡った曇りのない心は、一瞬にして打ち砕かれたのです。

覚醒する人が困難を経験する理由


先ほど、目覚めようと決意し、その道を歩み始めると、試練を経験する、とお伝えしました。
でもその試練も、一度ではありません。あなたが努力すればするほど、あなたが大きくなればなるほど、何度もより大きな試練となって表れるでしょう。
でも、その頃には、もはや試練とすら思わないかもしれません。

最初の目覚まし時計代わりに、目覚めるためには、人は必ず何らかの困難を必要とします。
全てが上手くいって、全てに満足している生活を送っていたら、目覚めようとは誰も思わないはずです。

それは仕事のトラブルかもしれないし、両親の介護かもしれないし、ペットの病気かもしれません。
いずれにしても、何とかしなければならない、というたぐいのものです。これまでの方法では太刀打ちできないでしょう。

こういったピンチの状況こそが、私たちを本当の意味で覚醒へと向かわせてくれます。だから困難は、覚醒への起爆剤となってくれるんですね。

例えば、人間関係で深く傷ついたとき、「なぜ私はこんなにもいつも苦しむのだろう」「もうこの苦しみから、絶対に、永遠に脱却したい!」といった強い思いが生まれるためには、ショックな出来事が必要なのです。

覚醒の道から外れると、また別のショックが起こって、本来の道に引き戻されるということもあります。

「なぜ、自分だけが…」「自分はどこで間違ってしまったんだろうか…」「自分の何がいけなかったのだろう…」

一度でも困難を経験すると、まるで自分の取り組みが間違っているように感じて、途中で諦めてしまう人がいます。
でも、実は、それこそがギフトなのです。

では、ショックな出来事は誰が創り出しているのでしょう。裏で糸を引いているのは誰でしょう。誰が試練を計画しているのでしょうか。

そう、それは自分です。
それらを作り出しているのは、他でもない自分なのですね。
全ての物事は自分で作っています。でも、顕在意識では、自分で作っている意識はありませんから、普通に考えても訳が分からなくなってしまうのです。

もしくは、ハイヤーセルフやガイドが裏で手を引いている場合もあるでしょう。いずれにしろ、自分の経験している出来事には、自分の意識がかかわっている度合いが非常に高いのです。

覚醒における犠牲


覚醒の過程では、いらないものが剥がれ落ち、まっさらな自分になるという体験を繰り返します。いわゆる「手放し」です。
そのたびに、波動が軽くなり、重たい荷物から解放されるという経験をします。

でも、いったい何を手放すのでしょうか。
人は、覚醒には犠牲が必要だと思っています。覚醒の代わりに何かを差し出そうとするのです。

住みなれた環境を捨てる。仕事を捨てる。友人を捨てる。家族を捨てる。
でも、覚醒において真っ先に手放されるのは、物理的なものではありません。

では、何でしょうか?
私たちの心の中に存在するイメージです。

恐れや不安は、知らず知らずのうちに膨張し、実態のない幽霊のような恐ろしい存在に成長していきます。そして、心の中に居座り、あなたを圧迫します。

苦しみは、犠牲と美徳との挟間で、あなたの中に居座り続けます。意外なことですが、人は苦しみを必要とし、手放そうとしません。

イメージとは、実態のないものです。心の中の幻想です。
つまり、もともと実態のないものを手放すことで、本当に必要なものが入ってくるのです。

これって、なんだか不思議ですよね。でも、心の中がきれいになると、現実にも新しいものが入ってくるというのは、きっと経験したことがあるでしょう。

無力であることと努力すること


不思議なことですが、覚醒に向けて進めば進むほど、より一層努力することを求められるようになります。
これは、例えば地区大会での100メートル走の選手が、国際大会までいったらより一層早いタイムを求められるようなものです。
世界各国の選手の中で競争するのですから、当然、より高い水準を求められますよね。でもそれだけ期待されていて、大きなチャンスをもらっているということでもあります。

あまり努力しなければ、さらなる努力を求められることはないでしょう。おそらく、覚醒している人ほど、自分にストイックに努力しているでしょう。
自分自身の力を発揮しなければならない部分をよく分かっているのです。

ハイヤーセルフも、ガイドも、目標に向けてひたむきに努力する人のことが大好きです。ひたむきに努力することで、その分野のスペシャリストであるガイドがサポートする場面を幾度となく見てきました。

例えば、ある販売をしていた女性が、ヒーラーになると決意しました。彼女は何年間も真剣にヒーリングに向き合いました。
彼女の元には、あっという間にヒーラーのガイドが傍に付きました。彼女は、素晴らしいヒーリングをするようになり、大勢の方が彼女のヒーリングを求めて列をなすようになりました。

自分のやりたいことについて聞かれたときに、「私は一体何をしたらいいのでしょう」「ハイヤーセルフに決めてもらいたいです」そんな風に言う方がいます。
もちろんそれもいいですが、自分自身で決めてもいいのです。あなたの決断に、みんな付いていきます。

無力であることを悟ること、努力し続けること。これらは相反するように見えて、実は調和しうるのです。

私は、自分が無力であり、救いようがなく、一人では何もできないと知ったときから、覚醒の道が開かれました。
それまでの私は、自分が何者かであるかのように取り繕い、知識や情報で自分を武装し、何か意味のあることを知っていて、何か有意義なことをやっていると思っていました。

でも、覚醒の観点から見れば、何もやっていなかったのです。
むしろ、それまで身に付けた固定観念や信念の数々は、覚醒にとっては有害以外の何物でもありませんでした。

私は、自分が何者だったか、自分の本質は何だったか、目に見えるものに囚われてすっかり忘れ去っていたのです。

でも、努力をする、という態度は残りました。
何者かになるための努力、自分をよく見せるための努力、知るための努力。その努力は結果、正しい方向へは向かっていなかったものの、何かに向けて努力するという態度は、最終的に覚醒において最も重要な要素として、それからも自分を導いてくれました。

覚醒へ向かわれている方は、一度でもこんな風に感じたことがあるのではないでしょうか。
自分の人生を振り返った時、自分はなぜこんなに無駄なことをやっていたのだろうか。
なぜ、自分の望みとは正反対なことをやっていたのだろうか。なんて、無駄な時間を過ごしていたのだろう。

でも、その時にあなたが乗り越えてきた困難は、あなたに乗り越える力を与えてくれたことに気づくはずです。
そうして、しばらく落ち込んだ後にこう気づきます。「これまでの人生は、無駄じゃなかったんだ」

そう、目覚める前の人生においても、学ぶべきことがあり、意味のあることがあります。

そんな風に、自分の人生を俯瞰して見られるようになっていく過程は面白いものです。

きっとそんな風に自分の人生の謎解きの真っ最中の方もいれば、「分かったぞ!」という感覚の方もいらっしゃるでしょう。
10人いれば、10通りの覚醒の道があります。ですから、ぜひご自身の選択された道を信じて、これからも歩み続けてください。

最後に20世紀最大の思想家と呼ばれたグルジェフの言葉をお送りします。
「眠りの中で生きるより、覚醒の努力のために死ぬ方がどれほどましだろう」

ということで、今日は、覚醒している人の特徴~覚醒の過程で経験すること~についてお話ししました。
覚醒の過程で起こる深い内的変化についてフォーカスをしてお伝えさせていただきましたが、伝えたいのは、意識の進化度合いに従って、それ相当の仕事を任される、ということです。

本当に、それぞれの道の過程で経験することは10人十色なんですよね。
でも、それを共有できる人とできるだけ多く話すことって、本当に癒しになると思います。

反対に、否定してきたり、聞く気がない人には、話さないこと。その人達にとっては、ただタイミングでなかったり、今すぐには必要ではないことなんです。
でも、時がくれば、「ぜひ教えてほしい」と向こうから言ってくるかもしれませんよ。

ぜひ、ご自身が経験されたことなどありましたらコメント欄で教えていただければ嬉しいです。それでは、またお会いしましょう。

真実の向こう側、愛と平和な世界へ
瑠璃でした。