人生を自在に操る方法:現実はあなたのイメージに過ぎない

こんにちは、瑠璃です。

今日は、死後の世界に見るこの世界の本質についてお話します。

あなたは今、自分がいる世界が現実ではないかもしれない、と考えてみたことはありますか?

もしくは、今感じている世界が自分の想像かもしれないと、一瞬でも疑ってみたことはあるでしょうか?

昔から宗教では「目覚めよ」「眠るな」「目を覚ましなさい」などの言葉がたびたび語られてきました。

眠りとは一体なんでしょうか?

目を覚ますとは、いったい何から目を覚ますことなのでしょうか?

今日は、目覚めようとする人たちは一体何から目覚めなければいけないのか、この現実とは何なのかについて、死後の世界を交えたお話をお届けしていきます。

今日お話しすること

・夜寝ている間に見る夢と現実の違い

・死後に訪れる理想の世界

・目覚めるためのルール

・目覚める人が持つ正しい認識とは

この記事を読むことで、あなたにとっての「現実」が大きくシフトし、あなたはより高次の世界へと導かれていくでしょう。

ぜひ最後までお読みください。

現実という幻

ある晩、私は夢を見ました。眠る直前に珍しくテレビを見ており、そこでは犯罪に手を染めてしまった少年の姿が描かれていました。

うちにはテレビがないため、外出先での出来事だったのですが、それは私の記憶に強烈な印象を残しました。

その晩見た夢は、寝る直前に見ていた映像の影響もあったのでしょう。私の出逢ったことも見たこともない風貌の男性が、ある一人の女性を騙そうと、姑息な手を使って誘惑をしたり、意地悪をしたりしている、決して心地が良いとは言えない夢でした。

目が覚めてからも、私は夢とは思えないような現実感にしばらくイライラしていました。夢の中に出てきた意地悪な男性に対して「いったいあなたはどういった神経しているの」と怒鳴りつけてやりたいほどの非常に不快な気分を感じていたのです。

夢のなかには深層心理が現れているといわれています。夢には、自分自身が過去に経験したことや「こうなりたい」という強い願望が表現されます。

日中の活動の中で強く印象に残ったことが夢に現れることもあるでしょう。例えば、追われている夢をよく見る人は、日ごろからタスクを抱え、常に追い立てられているように感じていたり、後がないように感じているなどです。

私の場合には、弱い人をいじめるような人に憤りを感じていた経験もあり、そういった夢が出来上がったのかもしれません。

目覚めてからも夢の中に出てきた意地悪な男性に腹を立てていた私ですが、それから、自分はなぜこんな夢を作り上げたのだろうか、と考えていました。その瞬間、はっと気づいたのです。

この夢の内容は、自分が脳の中で作り上げた架空の物語に過ぎない。では、この自分が現実だと思っている世界は、自分が作り上げた想像上の物語ではないと、どうして言い切れるだろう、と。

そんな風に思いました。

結局のところ、この現実もあなたが毎晩見る夜の夢と大して変わらないかもしれません。つまり、あなたの願望が形をとって、あたかも目の前にあるかのように現れているだけのものなのです。

あなたがこれまで経験してきたものや、見てきたものなどの過去の材料に「こうなってほしい」という将来の願望などが加わり、その結果ごちゃまぜになったものを体験しているのが「今」という現実です。

では、あなた以外の存在はどうでしょうか?

あなた以外の登場人物も、あなたが作り上げた人生のキャストであり、客観的な人物ではありません。

あなたの見ているAさんと、Bさんが見ているAさんは全くの別人です。また、実際のAさんと、あなたがイメージしているAさん像は全く違うかもしれません。

では、どちらが真実なのでしょうか。

「あなたの人生」を中心にしたときに、はっきりと表れるのは、あなたの心の中にあって、あなたがイメージしているAさん像です。つまりAさんの実体ではありません。

例えば、怒りっぽくて高圧的なAさんという人物がいたとしましょう。彼がここ数年でまるで別人のように穏やかな人物に変わっていたとしても、あなたが10年前のAさんしか知らなければ、あなたが思い出すのはいつも怒りっぽくて高圧的なAさんなのです。

そしてあなたの世界にいるのは、未だに怒りっぽくて高圧的なAさんです。このように現実とは、あなたの心の中のイメージが結晶化されてできたものと言えるでしょう。

そして、このAさん像が死後の世界へも引き継がれるのです。

夢と現実の違い

では、なぜ私たちは夜に見る夢は夢だと分かり、この現実は夢だとは思わないのでしょうか。

夢と現実の違いは、現実には連続性があるということです。目を覚ませば、昨日と同じ風景が待っています。やりかけの仕事、畳みかけの洗濯物、書きかけの日記……。

現実のなかでは、因果関係もはっきりしています。だから私たちは現実が自分の想像の産物だとは夢にも思わないのです。

中国の戦国時代の思想家、荘子(そうし)による「胡蝶の夢」という話があります。

夢の中で蝶としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話です。

荘子(そうし)は、「是と非、生と死、大と小、美と醜(しゅう)、貴と賤(きとせん)」などの現実に相対しているかに見えるものは、人間の「知」が生み出した結果であり、それを「ただの見せかけに過ぎない」と述べます。

荘子の伝えたいこととはちょっとずれてしまうかもしれませんが、私たちは、「実は夢でみた蝶こそが本来の自分であって、今の自分は蝶が見ている夢なのかもしれない」とは疑ってもみませんよね。

でも、実は目覚めとは当たり前を疑うことから始まるのです。

死後の世界と思いの投影

死とは、私たちが重い肉体を脱ぎ捨て、スピリットそのものとなることです。死によって、スピリットはようやく、肉体という牢獄から解放されます。

でも、死後の世界でさえも、いや、死後の世界のほうが、より客観的な世界からは遠ざかっていきます。

死後の世界においては、生前持っていた価値観が大きく影響されます。死後の世界で持つ、知識、願望、信頼などは今世で生きていた人生の結果といえるでしょう。

生きている時が昼だとするならば、死後の世界は夜のようなもの。昼と夜のようなペアの存在なのです。生があれば死があり、死があれば生があります。

死後の世界では、生前叶えられなかった目標や、やり残したことに再度取り組んだり、その夢が実現しているところを見ることもできます。

生きている間に満足な人生を送れなかった人も、死後の世界では自分の理想が次々と実現されていくのを見るのは楽しいことでしょう。思っただけで現実化していく世界です。

ですが、それらはあたかも現実のように見える幻なのです。

大勢の人が集まっていると思っても、それらはあなたの中のその人のイメージが結晶化されたものであり、生きている間に見る夜の夢のような幻にすぎません。

先ほどの例の怒りっぽくて高圧的なAさんがいましたよね。あなたの中でそのイメージを持ち続ける限り、死後の世界でもAさんは怒りっぽくて高圧的なAさんのままです。

でも、死後の世界ではあなたを好きな人や、あなたが好きな人しか配置しないでしょうから、Aさんのような人は作り出さないかもしれませんね。

死後の世界の例

もういくつか例をあげましょう。

例えば、ある男性は、死後の世界で自分の娘と一緒に暮らしていました。その男性と一緒にいる娘は、大人しく、清楚で、物静かな女性でした。

ところが、別の死後の世界に住む娘のところへ行ってみると、彼女は男性に負けず劣らず気が強く、勝気な活動家として活躍していました。

このように、死後はより主観的な世界ですから、父親は死ぬ前に自分が持っていた大人しい娘のイメージによって娘という人物を作り上げていたのです。

また別の人の話では、彼が出会った男性は、部屋の片隅で死んでからも一人で永遠に金貨を数えていたそうです。彼は生前お金に苦労し、お金に執着していたのでしょう。

このように、死後の世界は客観的な世界ではなく、ひとりひとりの心のイメージが投影された主観的な世界なのです。

心のイメージが現実を変える

あなたも、心の中で相手を許したとき、相手の態度がガラッと変わったり、人が変わったように優しくなったことを経験したことがあるでしょう。

それは、あなたが見ているのはAさんという客観的な人物ではなく、あなたの心の中のAさんのイメージ、つまりAさん像に過ぎないからです。

また、子供の頃の自分やインナーチャイルドに向き合うことで、「子供の頃に両親から愛されていなかった」という記憶が、「自分は愛されていた」という認識に変わった方を沢山見てきました。

過去という客観的事実は変わらなくても、感情や認識という主観的な事実が変わるだけで、こんなにも心が軽くなるのかと、皆さん驚かれます。

結論:私たちが生きる主観的現実

結局のところ、現実においても死後の世界においても、私たちは主観的な現実の中に生きているのです。

ゆえに、過去も変えることができるのです。

投影するいびつなイメージ

では、話を現実に戻してちょっと考えてみましょう。あなたはどんなイメージを現実に投影しているでしょうか。

あなたが認識している自己像はどんな人物でしょうか。

あなたが描く自己像と、友人があなたに抱く人物像にかなりのギャップがあることを知ったら、大抵の人が驚くでしょう。

そして批判されたり、嫌われた時、あなたはその嫌われた自分に自己を同一化し、この自分が嫌われたと思って落ち込みます。

そして次に起こるのは、ものごとへの自己同一化です。人は特定のものごとやイメージや結果に執着し、過去や未来に執着し、あらゆるものに執着します。

もっとも執着しているのは、苦しみといってもいいかもしれません。人生における困難、苦しみ、病気にさえ、人は執着し手放そうとしません。

本当は自分ではないものまで自分のものだと思い込んだ結果、現実は本当にその通りになります。

あなたが心の中に抱くイメージこそが現実になるのです。

だからこそ、心の中の世界を紐解くことによって、目の前の現実を作りかえていくことができるのです。

目覚めと悟り

昔から宗教では、「目覚めよ」「眠るな」「目を覚ましなさい」「生まれるためには死ななければならない」などの言葉がたびたび語られてきました。

私たちは、ただ夢を見ているのだとしたら……?

私たちは生まれてからずっと眠っていて、一度も目覚めたことがないのだとしたら……?

聖書にあるキリストの言葉の中で、もっとも有名なものの一つにこんなものがあります。

「一粒の麦は、落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネによる福音書12章24節)。

自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

私たちが永遠の命に至るためには、魂としての輝きを取り戻さなくてはなりません。永遠の命とは、魂です。

魂は生まれることもなく、また死ぬこともありません。

魂としての意識で生きることができたとき、あなたは眠りから解放されます。そして真に生まれることができるのです。

そのためには、肉体に紐づいた自我の意識は死ななければならないのです。そして今世で身に付けた数々のイメージや執着も手放し、まっさらな自分にならなければなりません。

でも、自分が今見ている現実は夢であり、それが夢であると気づくことができなければ、そもそも目覚めようとは思わないでしょう。

あなたが今このブログを読んでいらっしゃるということは、あなたはどんなきっかけであれ、そのことに気づき始めていらっしゃることと思います。

この現実が夢であると気づき、そこから目覚める継続的な努力をすること。それによって私たちは永遠の命であるスピリットの世界へと戻ることができるのです。

人生は思い通りになる

現実は夢である、現実は幻であるとは何を意味するのでしょう。

夢なのですから、あなたは自由に見たい夢を選ぶことができます。

あなたという人生は、あなたという映画監督が、あなたのイメージに添うように配役を決定し、脚本を書いているようなものです。

これをひとりひとりが行っているのです。だから、人の数だけ、真実があります。みなそれぞれの世界で生きているのです。

思い出してください、あなたが創造主であることを。この人生の監督も脚本家もあなたなのです。

だからこそ、人生は思った通りになるし、反対にそれ以外にはなりえないのです。

あなたは、これが自分の書いている脚本だと分かったら、自分の世界をどのように創造しますか?

あなたにとっての真実を生きてください。

まとめ

ということで今日は死後の世界に見るこの世界の本質についてお話させていただきました。

結局のところ、起きていても夜眠っていても、どちらも夢の中であることには変わりがありません。それを夢であると見抜ける人だけが、そこから出たいという正しい願望を持つことができます。

目覚めた世界とは、スピリットの世界なのです。スピリットの意識に達した人だけが、真実の世界を見ることができます。

また今日のお話を聞いて気づいたことなどありましたら、アウトプットのためにぜひコメント欄をご利用ください。

それではまたお会いしましょう。真実の向こう側、愛と平和な世界へ。瑠璃でした。